成田長泰

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成田 長泰(なりた ながやす、明応4年(1495年)? - 天正元年12月17日1574年1月9日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将本姓藤原氏家系藤原師輔の流れを汲む成田氏成田親泰の子で、小田朝興成田泰季の兄。成田氏長成田長忠の父。正室長尾景英の娘。は芦伯斎。下総守。

武蔵国忍城を領していた。成田氏は代々山内上杉氏の被官を務めていたため、はじめ関東管領上杉憲政に仕えたが、後北条氏との抗争で主家が衰えると、天文14年(1545年)4月の父・親泰の死を受けて家督を継いだ長泰は、5月には後北条氏に服した。その後、永禄3年(1560年)、関東管領に就任した上杉謙信が関東に進出してその配下になる。しかし謙信が小田原城を包囲して後に帰国すると(小田原城の戦い)、北条氏康に降伏し、その家臣となった。[1]

上杉謙信に反旗を翻したのは、一説には鶴岡八幡宮で行われた関東管領の就任式で長泰が下馬をしなかったことで謙信に扇で烏帽子を打ち落とされるという恥辱を受けたため、兵を率いて居城へ戻ったといわれている(『相州兵乱記』)。長泰が下馬しなかったのは成田氏が藤原氏の流れをひく名門で、祖先は源義家にも下馬をせず挨拶をしたという名誉の家門であるので、長泰は古例により下馬をしなかったという逸話があるが、小田原城の戦いの後、隣地である羽生領の帰属を巡って、謙信と衝突したためとも言われている。[2]

永禄6年(1563年)、謙信に忍城を攻められて降伏した。このため、隠居を命じられて嫡男の氏長に家督を譲るが、永禄9年(1566年)にこれを廃して家督を次男の長忠に譲ろうとしたために氏長と対立したが、弟の泰季や宿老の豊嶋美濃守らの反対に遭い結局、これを断念して出家し引退した。79歳で死去したという。

脚注

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参考文献

関連項目

  • 黒田『戦国関東の覇権戦争』p59、p99
  • 黒田『戦国関東の覇権戦争』pp112-114。