徳冨蘆花

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蘆花恒春園(東京都世田谷区)

テンプレート:熊本バンド 徳冨 蘆花(とくとみ ろか、1868年12月8日明治元年10月25日) - 1927年昭和2年)9月18日)は、日本小説家。「徳冨」の表記にこだわり、各種の文学事典、文学館、記念公園などは「冨」の字を採用している。本名は徳富健次郎(とくとみ けんじろう)。

号の由来は、自ら述べた「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。然もその見所なきを余は却って愛するなり」からきている。

生涯

横井小楠門下の俊英であった父・徳富一敬の次男として肥後国に生まれる。熊本バンドの1人として同志社英学校に学びキリスト教の影響を受け、トルストイに傾倒する。後年、夫人とともに外遊の際、トルストイの住む村を訪れ、トルストイと会見した。そのときの記録『順礼紀行』は、オスマン帝国治下のエルサレム訪問記も含めて、貴重な記録となっている。

兄で思想家ジャーナリスト徳富蘇峰の下での下積みの後、自然詩人として出発し、小説『不如帰』はベストセラーになった。また、随筆『自然と人生』はその文章が賞賛され、一気に人気作家となった。しかし、国家主義的傾向を強める兄とは次第に不仲となり、1903年(明治36年)に蘇峰への「告別の辞」を発表し、絶縁状態となる。

1906年(明治39年)12月10日、旧制・第一高等学校の弁論部大会にて最初の講演を行なう。『勝の哀(かちのかなしみ)』の演題で、ナポレオン児玉将軍を例に引き、勝者の胸に去来する悲哀を説き、一時の栄を求めず永遠の生命を求める事こそ一日の猶予もできない厳粛な問題であると説いた。この演説に感動した一高生の何人かは荷物をまとめて一高を去ったという。

1907年(明治40年)、北多摩郡千歳村字粕谷(現・東京都世田谷区粕谷)に転居、死去するまでの20年間をこの地で過ごした。1910年(明治43年)の大逆事件の際、幸徳秋水らの死刑を阻止するため、蘇峰を通じて首相の桂太郎へ嘆願しようとするが間に合わず処刑されてしまう。直後に再び一高の弁論部大会での講演を依頼されると1911年(明治44年)2月1日、『謀叛論』の題で論じ、学生に深い感銘を与えた。この講演を依頼した学生が、ともに戦後に社会党委員長となる河上丈太郎や文部大臣となる森戸辰男だった。

1927年昭和2年)、病に倒れる。伊香保温泉で蘇峰と再会して和解、「後のことは頼む」と遺言して死去したという。58歳だった。

蘆花の死後、旧邸宅は夫人より東京市に寄贈され、現在は蘆花恒春園(面積約7万平方メートル)として開放されている。夫妻の墓のほか、徳冨蘆花旧宅も保存されている。蘆花の名前は、公園から徒歩5分の位置にある世田谷区立芦花小学校世田谷区立芦花中学校、徒歩15分の位置にある京王電鉄京王線芦花公園駅にも残っている。

熊本県水俣市には「徳富蘇峰・蘆花生家」[1]熊本市には「徳冨記念園」[2]群馬県渋川市に「徳冨蘆花記念文学館」がある。

作品・日記

  • 不如帰』(1898年 - 1899年)
  • 『灰燼』
  • 『自然と人生』(1900年)
  • 『思出の記』(1900年 - 1901年)
  • 『黒潮』(1902年)
  • 『寄生木(やどりぎ)』
  • 『みみずのたはこと』(1913年)
  • 『黒い目と茶色の目』(1914年)
  • 『蘆花日記』 全7巻、筑摩書房-大正初期の日記

参考文献

  • テンプレート:Cite book
     新版『中野好夫集 9・10・11巻』 筑摩書房、1984年。
  • 菱木定男 「感動した銚子の日の出―徳富蘆花の「自然と人生」」
    岡見晨明編 『銚子と文学-甦る言葉の海流-』より、東京文献センター、2001年6月、ISBN 978-4925187206。
  • 熊本県立大学編『至宝の徳冨蘆花』熊本日日新聞(熊日新書)、2009年6月。
  • 熊本県立大学編『蘇峰の時代』熊本日日新聞(熊日新書)、2013年11月。

参照

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登場作品

関連文献

関連項目

外部リンク

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