左右田喜一郎
左右田 喜一郎(そうだ きいちろう、明治14年(1881年)2月28日 - 昭和2年(1927年)8月11日)は日本の経済学者、経済哲学者。新カント主義者。法学博士。
経歴
神奈川県横浜市出身。幼少より秀才で鳴らし、1887年に横浜小学校では第1学年を飛ばし、2年生として入学。尋常科、高等科を7年で修了し、横浜商業学校(Y校・現横浜市立横浜商業高等学校)では予科1年の1学期の修了後に2年生に進級。Y校野球部に所属。また後年にはY校同窓会幹事長を務め、同校専修科の横浜商業専門学校(横浜市立大学)への昇格運動に携わった。
1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。同校で福田徳三に学ぶ。卒業後渡英しケンブリッジ大学でアルフレッド・マーシャル及びウィリアム・カニンガムに師事。その後ドイツバーデン=ヴュルテンベルク州に10年間留学しアルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルクでカール・ヨハネス・フックス教授のゼミナールに参加。
在独中に著わした『貨幣と価値』『経済法則の論理的性質』が評価され1924年帝国学士院賞を受賞。
パリ留学を経て、1913年に家業を継ぐために帰国。同年12月に母校東京高等商業学校の講師に就任。1914年家業の左右田銀行取締役及び株式会社左右田貯蓄銀行取締役に就任、翌15年には父が死去したため頭取に就任。神奈川県社会事業協会も務めた。経済哲学の研究も続け1918年からは京都帝国大学(現京都大学)文学部講師も務めた。また横浜社会問題研究所を主宰。1925年には貴族院多額納税者議員に就任。
1920年の経済恐慌では横浜で有名な茂木商店が破産、七十四、神奈川、戸塚の各銀行が取り付け騒ぎにあい、左右田銀行もその例にもれなかった。これが大きな痛手となって、大震災がそれに拍車をかけ、ついに銀行は閉店。喜一郎も母校東京商科大学講師や、京都帝国大学講師、貴族院議員という一切の公職をやめてしまった。1927年病気のため死去。
西田幾多郎の哲学に対して使われる「西田哲学」という名称は、左右田の「西田哲学の方法について」という論文のなかで、初めて使われた。
家系
左右田家の祖先は新潟の豪農だった。喜一郎の数世代前から群馬県に出てきて、商人となった。喜一郎の父は次男だったので、丁稚としていろいろな商店に奉公に出ていたが、明治維新の直前に横浜に来て両替商に勤め、そこで財産を成し、明治28年(1895年)に左右田銀行をつくった。これは横浜の有名な大きな銀行となった。[1]
家族
息子の左右田道雄は黒沼健の筆名により推理作家・SF作家として知られた。