宣帝 (漢)
宣帝(せんてい)は、前漢の第9代[1]皇帝。武帝の曾孫。初め民間に育ち、霍光に擁立されて皇帝に即位した。後世、後漢光武帝により前漢中興の祖とされ、中宗の廟号を贈られた。その数奇な生涯から逸話が多い。
生涯
紀元前91年の巫蠱の獄により、曾祖母の皇后衛子夫、祖父の戻太子劉拠、祖母の史氏、父の悼皇考(史皇孫)劉進、母の王氏、兄と姉が処刑された。生後間もない劉病已は投獄されたが丙吉により養育され、恩赦により釈放されると民間で育てられた。長じては闘鶏、競馬を嗜み侠客の真似事をしていたと言われる一方、掖廷令の張賀(張安世の兄)から学費を出してもらい学問も身につけていった。やがて掖廷での養育に改められた際、張賀が劉病已の後見役となり、張安世の息子・張彭祖が学友となり、長安郊外の尚冠里に居した。
紀元前74年、昭帝が崩御、昌邑王劉賀が一時即位するが品行不良を理由に廃立されると、儒教の経典、特に詩経・論語・孝経に通じており、「質素倹約に務め、仁愛深い性格だ」という丙吉・霍光らの推薦により上官皇太后の詔を受け、まずは陽武侯に封じられ、間もなく即位した。即位した際に、忌諱が困難であることから即位の際に諱を病已(へいい)から詢(じゅん)と改めている。
昭帝崩御から昌邑王の廃立を経て宣帝の即位に至る一連の動きは、霍光の主導したものであり、政権は引き続き大司馬大将軍である霍光に委ねられた。
紀元前69年、霍光が死去すると、宣帝は肥大しつつあった霍一族の権力、特に軍の指揮権を徐々に剥奪し、外戚の許氏らの子弟に与えた。これに反発した霍光の遺児が反乱を計画すると、それを理由に霍氏一族を処刑している。この他、反乱成功後に帝位を簒奪する予定であった大司馬霍禹は腰斬の刑、皇后の地位にあった霍氏(霍光の娘)も廃位して幽閉し、霍光の死から2年後に親政を開始した。
政策
親政後の宣帝は「信賞必罰」(漢書宣帝紀の評言による)をモットーとした法家主義的政治信条に則り、弘恭、石顕ら(二人とも宦官)有能な法政通を官僚に起用し、政策に疎い儒者たちを政治の中枢から遠ざけた。減税や常平倉の設置、国民への爵位の授与、中央(中書を通じての皇帝への直接の上奏と尚書の権限の縮小)と地方(地方行政を県中心から郡中心へ移行)での行政改革、犯罪取締りのための刑罰の強化といった政策を行った。これらは民力を休養させつつ中央政府の権力強化を図る内政重視政策であり、その結果、武帝以降の国内の疲弊を緩和させることに成功した。特に、獄吏による刑務所内での虐待を禁止し、不当に高額で民衆の生活を圧迫していた塩の値段(当時は政府の専売だった)を大幅に下げたのは、刑務所で育ったのち民間で暮らし世情に通じていた宣帝ならではの施策であった。
一方、外交面では烏孫と連携して西域に進出、匈奴を弱体化、分裂化させ、紀元前51年には匈奴の呼韓邪単于を降伏させるなど、一時期弱体化していた漢の国勢を復興させることに努めた。
これら内外政治における成果から、文武に功績があったとされ、班固の『漢書』宣帝紀において、前漢中興の祖という評価を受けている。
しかし、中書を通じての直接の上奏は、中書の任にあたった宦官の権力を強化させる原因になり、後の元帝の代には宦官と外戚が連携して政治に大きな影響を及ぼす一因となったことは否めない。
現実主義者であったため、理想主義、懐古主義である儒教を嫌い、儒教に傾倒する皇太子劉奭(元帝)とは反りが合わず廃嫡も考えた。儒者登用を進言した皇太子を一喝した言葉は古来名言とされており、『漢書』・『十八史略』などで広く日本社会にも流布している。
(太字部分は故事成語になった部分) 「漢家おのずから制度あり。元々、覇王道を以ってこれを雑す。なんぞ純じて徳教(儒教)に任じ、周政をもってせんや。かつ、俗儒は時宜に達せず。好んで古を是となし今を非となす。人をして名・実を眩ませ、守るべきところを知らず。なんぞ委任するに足らんや。我家を乱すものは必ず太子ならん。」
(意味:漢王朝では昔から覇道[法家]・王道[儒家]の良いところを取っているのだ。なぜお前は儒教だけが素晴らしいなどと言い、儒教が理想とする周の政治に戻しましょうなどと世迷い事を言うのか。そのうえ、俗な儒者どもは時局に合わせてものを考えず、常に「昔はよかった、今は良くない」などと言い出し、現実を見ようとせず、政治が出来ない。そんな連中を登用せよとは何事か。お前のような奴が漢王朝をおかしくするのだ。)
しかし、結局、劉奭に後嗣が生まれたことを理由に廃嫡を見送った。元帝はこの一喝の言葉通り、儒者を登用して王莽の専制を招き、前漢滅亡の端緒を開いたのである。
なお、別府大非常勤講師の中川祐志は、論文(参考文献参照)において、後漢の光武帝が宣帝同様に民間から即位し、法家政策を取って豪族の暴走を食い止めようとしたため、同じ出自で同じ政策を取っていた宣帝を高く評価し、中興の祖と持ち上げたことから、王家を復活させたわけでもない宣帝が史書において異常に高く評価されていることを指摘している。光武帝はわざわざ宣帝に「中興の祖」を意味する「中宗」の廟号を奉り、王宮に祀るほどであった。また、中川は、儒家が往々にして讖緯説に基いて皇帝退位を持ち出し、権力基盤を危うくする存在だったことから、宣帝は儒家を退けたともしている。
逸話
- 儒者から配膳の際の肉料理の配置を古の作法に戻して欲しいと要請を受けたとき、懐古主義で些末なことを進言する儒者を疎み、更に「昔は人は料理を手づかみで食べていたがそれに戻せばどうか」と返答し、儒者をやりこめた。
宗室
登場作品
- 加藤四季『お嬢様と私―たなぼた中国恋愛絵巻』 - 主人公のひとりで、下層貴族の屋敷で働く召使いとして登場。お嬢様である許平君の目に余るじゃじゃ馬ぶりを半ば呆れ顔で見守っていたが、ひょんなことから結婚することになってしまう。
- 白井恵理子『常闇の宮 黎明の星』(『魔境の扉 飛蝶の剣』収録) - 后の許昭君を愛する心優しい皇帝として描写されている。
脚注
参考文献
- 班固『漢書』宣帝紀
- 十八史略
- 中川祐志論文『光武帝の宣帝観・補論』別府大学紀要ゆけむり史学 No.7 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=ys00705