孫秀
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孫 秀(そん しゅう、生没年不詳)は、中国の三国時代の軍人。呉の皇族。字は彦才。呉の大帝孫権の弟・孫匡の孫。孫泰の子。孫倹の父、孫晷の曾祖父。男性。妻の蒯氏は蒯鈞の子、蒯良の孫。
経歴
父の孫泰は孫匡と魏の皇族である曹氏の娘との間に生まれた子で、234年の魏との合肥の戦いの際に戦死している。
呉の前将軍として、魏との最前線である夏口を守っていた。しかし呉の皇族の中でも人望が厚く、将軍として軍部内における影響力も強かったため、時の皇帝であった孫皓に疑われて殺されかける。そのため、一族を引き連れて晋の司馬炎のもとへ亡命した。270年のことである。
司馬炎は孫秀を手厚く迎え、驃騎将軍に任命し、俸禄まで与えている。また、蒯氏をめとらせた。280年、呉が晋に滅ぼされると、「孫皓は何と言う暗君か」と大いに嘆いた。
呉の滅亡と同時に伏波将軍に降格されたが、開府の権限は引き続き許された。もっとも、江南からの降伏者である孫秀に江北の人間は仕えようとはしなかったため、同じ江南から人材を求めるしかなかった。孫秀の部下になった人物の一人に陶侃がいる。296年に反乱を起こした斉万年討伐に参加した建威将軍周処(周魴の子)は、上官や同僚に憎まれていたが、彼の擁護に回った人物の一人として、伏波将軍の孫秀という人名が挙がっている。
永寧年間(301年-302年)に亡くなり、改めて驃騎将軍を追贈された。
趙王司馬倫の側近に同名の人物がおり、こちらは司馬倫が実権を握った際に驃騎将軍に任命されている。