智ギ
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(天台大師から転送)
テンプレート:Ambox-mini テンプレート:Infobox Buddhist 智テンプレート:JIS2004フォント(ちぎ、Zhi-yi)(538-597) は、中国の僧侶。天台宗の実質的な開祖であるが、慧文、慧思に次いで第三祖とされている(龍樹を開祖とし慧文を第二、慧思を第三、智テンプレート:JIS2004フォントを第四祖とする場合もある)。智者大師ともいう。
事績
潁川の陳氏として、草州華容(湖南省華容県)に生まれた。18歳で出家し、天嘉元年(560年)光州大蘇山で慧思に学ぶ。
光大2年(568年)から7年間、金陵の瓦官寺で『法華経』や『大智度論』を講義。
太建7年(575年)からは浙江省の天台山に登って天台教学を確立した。南朝陳の同族であるため、皇帝や貴族層からの信任が厚く、要請により、至徳2年(584年)再び金陵に出て、光宅寺で『法華文句』を講義した。
陳末の兵乱を廬山に避け、開皇11年(591年)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)の懇請で晋王に菩薩戒、「總持」の法名を授け、晋王から「智者大師(だいし)」の号を賜わった。また、三論宗の嘉祥大師吉蔵とも交遊した。
その後、荊州に玉泉寺を開創して『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』の天台三大部を講義した。ほかにも『観音玄義』、『観音義疏』、『金光明玄義』、『金光明文句』、『観無量寿経疏』の天台五小部を講義した。いずれも弟子の章安灌頂により筆録される。
10年ぶりに天台山に帰り、国清寺を修復して教団の生活規定を制定した。晋王楊広の要請で『維摩経疏』を著述し、揚州に向かう途中、(596年)西門石城寺で入滅。
資料・伝記
- 章安灌頂撰「隋天台智者大師別傳」
- 「隋國師智者天台山國清寺釋智テンプレート:JIS2004フォント傳」(『続高僧伝』巻17「習禪篇」2)
- 京戸慈光 『天台大師の生涯』 レグルス文庫・第三文明社
- 田村芳朗・新田雅章 『智テンプレート:JIS2004フォント 人物中国の仏教』 大蔵出版
- 藤善真澄・王勇 『天台の流伝 智テンプレート:JIS2004フォントから最澄へ』 山川出版社
著書
- 菅野博史訳注 『法華玄義』 全3巻:レグルス文庫・第三文明社、新装版刊
- 新田雅章注・解説 『摩訶止観 〈佛典講座25〉』 大蔵出版、カバー装で新版刊
- 多田孝正注・解説 『法華玄義 〈佛典講座26〉』 大蔵出版、同上
- 関口眞大校注 『摩訶止観』 上下巻:岩波文庫、※他の訳注はリンク先を参照
関連項目
師:南岳慧思 | 天台宗(中国) | 弟子:章安灌頂 |