大伴弟麻呂
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テンプレート:基礎情報 公家 大伴 弟麻呂(おおとも の おとまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿・武将。従三位・大伴古慈斐の子[1]。史料に見える初の征夷大将軍。
生涯
宝亀10年(779年)従六位上から3階昇進して従五位下に叙せられ、翌宝亀11年(780年)衛門佐に任ぜられる。
天応元年(781年)従五位上・左衛士佐に叙任される一方、同年に即位した桓武天皇生母の皇太夫人・高野新笠のために中宮職が設置された際に、その次官(中宮亮)を兼ねている。延暦元年(782年)常陸介、翌延暦2年(783年)征東副将軍と一時東国の地方官を務める。延暦6年(787年)右中弁次いで左中弁と京官に復帰し、延暦7年(788年)正五位下に昇叙され皇后宮亮を兼ねる。
延暦10年(791年)従四位上・征夷大使に叙任されるが、延暦11年(792年)11月に一旦征夷大使の辞表を提出し、翌延暦12年(793年)2月には征夷副使・坂上田村麻呂も辞表を提出している。しかし、結局両方とも認められなかったらしく、延暦13年(794年)正月に弟麻呂は征夷大将軍として節刀を賜与され、同年6月には副将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦果を挙げる。延暦14年(795年)節刀を返上して、征討の功労により従三位・勲二等に叙せられた。
その後、蝦夷征討の任務は田村麻呂(延暦16年(797年)征夷大将軍)が取って代わり、弟麻呂は東宮傅・治部卿と京官を歴任する。延暦25年(806年)、老いて衰えたことを理由に辞職を願い出て許される。大同4年(809年)5月28日薨去。享年79。最終官位は散位従三位。
官歴
- 宝亀10年(779年) 1月19日:従五位下。
- 宝亀11年(780年) 3月17日:衛門佐。
- 天応元年(781年) 5月17日:中宮亮。5月25日:左衛士佐。8月12日:従五位上。
- 天応2年(782年) 6月20日:常陸介。
- 延暦2年(783年) 11月12日:征東副将軍を兼任。
- 延暦6年(787年) 6月20日:右中弁。9月17日:左中弁。
- 延暦7年(788年) 2月28日:皇后宮亮を兼任。11月25日:正五位下。
- 延暦9年(790年) 3月26日:河内守を兼任。
- 延暦10年(791年) 1月7日:従四位下。7月13日:征夷大使。
- 延暦13年(794年) 1月1日:征夷大将軍として節刀を賜与。
- 延暦14年(795年) 1月29日:節刀を返上。2月:戦功により従三位・勲二等。
- 時期不明:東宮傅。
- 延暦18年(799年) 9月10日:治部卿。
- 延暦25年(806年) 2月20日:致仕。
系譜
脚注
参考資料
- 森田悌『日本後紀 (上)』講談社学術文庫、2006年