善光寺式阿弥陀三尊
善光寺式阿弥陀三尊(ぜんこうじしきあみださんぞん)は、信州善光寺の本尊を模した阿弥陀三尊像。日本初伝の仏像といわれ、蘇我氏と物部氏によるの崇仏廃仏論争の対象となった。鎌倉時代以降に盛んに制作され、日本各地に現存し、飛鳥・白鳳時代頃の仏像に特徴的な印相備えた一光三尊阿弥陀如来像を通称して善光寺式阿弥陀三尊像と呼ぶ。
善光寺の本尊像
『善光寺縁起』の伝えるところによれば、信州善光寺の秘仏本尊・阿弥陀三尊像は、天竺から百済に伝えられた仏像であるとされる。なお、『日本書紀』によれば、日本に最初に伝えられた仏像は阿弥陀如来ではなく釈迦如来であって、この点『善光寺縁起』の所伝と異なっている。
難波の堀江(現在の大阪市)に捨てられたこの仏像を602年(推古天皇10年)頃、本田(本多)善光という者が発見し、出身地である信濃国麻績の里(おみのさと、現在の長野県飯田市座光寺)に持ち帰って祀ったという。その後642年(皇極天皇元年)、阿弥陀如来が善光に命じたところにより現在の長野県長野市に移され、ここに建てられた堂宇が今の善光寺の始まりとされる。善光寺の本尊は鎌倉時代以来秘仏とされ、ここ数百年間見た者はいないとされている(一説には偽仏の出現により江戸幕府の使者が検分したという)。本尊の忠実な写しとされるお前立(おまえだち)の三尊像(鎌倉時代、重要文化財)のみ数え7年に一度の開帳(公開)が行われている(前回の開帳から7年目ということで、実際は満6年に一度)。21世紀に入ってからでは2003年が最初の大開帳の年であった。
善光寺の本尊像は、戦国時代に武田信玄によって甲斐善光寺に移され、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康と権力者の手に移り何度か移動したが、豊臣秀吉により慶長3年(1598年)に元の信州善光寺に戻されている。
福島県の重要文化財である阿弥陀三尊像(善光寺式)や、佐久市の重要文化財である阿弥陀如来座像はじめ、多くの仏像や仏像が善光寺式とされている。
善光寺式阿弥陀三尊
上述の善光寺の秘仏本尊を模したとされる、特色ある形式の阿弥陀三尊像が日本各地に分布し、彫刻史では「善光寺式阿弥陀三尊像」と称している。
- 中尊の阿弥陀如来、両脇侍の観音菩薩・勢至菩薩の3体とも立像である。
- 阿弥陀如来の印相(両手の示す形)が「刀印」という独特のものである。(下げた左手の人差し指と中指を伸ばし、他の指を曲げる)
- 両脇侍は胸前で両手の掌を水平にして重ね(「梵篋印」)、独特の宝冠をかぶっている。
- 三尊全体の背後を大きな1枚の舟形光背がおおっている。これにより「一光三尊」という。
この善光寺式阿弥陀三尊像と類似の形式の三尊像は、たとえば法隆寺献納宝物(東京国立博物館の法隆寺宝物館所蔵)の金銅仏中にもあり、三国時代の朝鮮半島の金銅仏が源流にあると思われる。もともとは阿弥陀如来ではなく、釈迦如来であったとも考えられている。
善光寺式阿弥陀三尊像は鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造像された。高さ50センチ内外の銅製の小像が多いが、甲斐善光寺像のような大作や、広島・安国寺像のような等身大の木像もある。三尊がばらばらに散逸することも少なくないが、特異な印相から、善光寺仏であることは判別できる。