北上 (軽巡洋艦)
ファイル:Japanese cruiser Kitakami in 1935.jpg | |
艦歴 | |
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発注 | 1917年度計画(八四艦隊案) |
起工 | 1919年9月1日佐世保工廠 |
進水 | 1920年7月3日 |
就役 | 1921年4月15日 |
その後 | 終戦時残存 工作艦として復員輸送を支援 1946年長崎で解体 |
除籍 | 1945年11月30日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:5,100トン |
全長 | 162.15m |
全幅 | 14.17m |
吃水 | 4.8m(常備) |
機関 | 竣工時:タービン4基4軸 90,000SHP 回天搭載艦時:タービン2基2軸 35,110SHP |
最大速 | 36.0ノット(竣工時) 23.0ノット(回天搭載艦時) |
航続距離 | 5000海里 / 14ノット時(竣工時) |
乗員 | 650名(回天搭載艦時) |
兵装 (竣工時) |
50口径14cm単装砲 7門 40口径8cm単装高角砲 2門 53cm連装魚雷発射管 4基8門 |
兵装 (重雷装艦時) |
50口径14cm単装砲 4門 25mm連装機銃2基 61cm4連装魚雷発射管 10基40門 |
兵装 (回天搭載艦時) |
12.7cm連装高角砲 2基 25mm3連装機銃12基 25mm単装機銃31挺 回天8基 |
北上(きたかみ)は日本海軍の軽巡洋艦。球磨型の3番艦である。艦名は、岩手県・宮城県を流れる北上川より名づけられた。
目次
艦歴
九三式酸素魚雷の登場をきっかけに、同型艦「大井」と共に、日米両海軍の艦隊決戦に備えて一旦重雷装艦に改装されたが、太平洋戦争開戦後は航空主兵の流れから艦隊決戦は起こらなかったため、重雷装の発射管を一部撤去して高速輸送艦へ改装され、その後は輸送任務に従事した。1945年には特攻兵器・回天の搭載母艦に改装されたが、出撃することはなかった。
初期
1921年7月3日、佐世保海軍工廠にて竣工した。就役してすぐ、日中戦争の拡大に伴い、澎湖諸島馬公を拠点として中国中部への日本軍部隊の輸送の掩護を行った。[1]
1941年8月25日、佐世保海軍工廠にて重雷装艦への改装工事を受けた。一部の14cm主砲を降ろし、それまでの53cm魚雷発射管に変えて、61cm魚雷発射管を左右各舷4連装5基20門、両舷合計40門搭載した。これは、重雷装艦による特別夜戦部隊を作るという海軍の計画によるものであった。9月30日に改装工事が完了し、北上と大井は第1艦隊第9戦隊に配属された[1]。
太平洋戦争緒戦
1941年12月7日の真珠湾攻撃では、広島湾柱島泊地から小笠原諸島まで、連合艦隊の戦艦の護衛を行った。さらに1月下旬から2月上旬にかけて、第27駆逐隊(白露、時雨)、第32駆逐隊(刈萱、芙蓉、朝顔)と共に台湾に向かう陸軍輸送船団を護衛する[2]。
1942年1月から5月までは、主として日本近海で訓練を行った。5月29日のミッドウェー海戦では、大井とともに第一艦隊(司令長官:高須四郎中将)第九戦隊に配属され、無事に横須賀鎮守府に6月17日に帰投した。
高速輸送艦として
8月から9月にかけて、「大井」と「北上」は高速輸送艦へ改装された。10基40門の4連装魚雷発射管は8基32門に減らされた[3]。大発動艇4艘[4]、3連装96式25mm高角機銃2基、爆雷投下軌条を装備した[5]。9月12日、舞鶴鎮守府第41特別陸戦隊を収容して横須賀を出撃、17日にカロリン諸島トラック諸島到着(19日揚陸)[6]。10月3日、「北上」は陸戦隊部隊と千代田基地員を乗艦させトラック泊地を出港し、6日ソロモン諸島ショートランド島着、輸送任務を終えて9日にトラック泊地へ戻った[7]。
11月、北上はマニラからニューブリテン島ラバウルへ部隊を輸送した後、年末までに佐世保へ帰投した[1]。この頃、更に4連装魚雷発射管を4基下ろして4基16門とし、大発を増設したとされる[5]。
1943年1月から、ニューギニアの戦いにおける日本軍の増援作戦に関わった。1月には陸軍第20師団を釜山からパラオ経由でニューギニア島ウェワクへ輸送した。2月には第41師団を青島からパラオ経由でウェワクへ輸送した。[1]
3月15日、第9戦隊は解隊[8]。4月から5月にかけて、スラバヤからニューギニア島テンプレート:仮リンクへの輸送船3隻の護衛を行った[1]。7月1日をもって「北上」と「大井」は南西方面艦隊第16戦隊に編入される[9]。その後、スラバヤを拠点として警備を行った。
6月23日、マカッサルにて米第5空軍テンプレート:仮リンクのB-24爆撃機による攻撃を受けたが、損傷はなかった。[1]
8月にシンガポールのテンプレート:仮リンク海軍基地で補修を受けた。9月始めにシンガポールからニコバル諸島への輸送艦1隻の護衛を行った。10月終わりにはアンダマン諸島ポートブレアへの輸送艦2隻の護衛を行った。
1944年1月終わり、ポートブレアへの輸送艦1隻の護衛を行った。その帰途、1月27日にマラッカ海峡を通過中にペナンの南西で英海軍の潜水艦テンプレート:仮リンクが放った魚雷2発を艦尾に受けた。北上は鬼怒に曳航され、Angsa湾で応急修理を受けた後、2月にセレター海軍基地で修理を受けた。
まだ修理は完了していなかったが、マニラへ向かうタンカー旭東丸の護衛を行うために6月21日に修理を中断した。7月12日から26日まで、カヴィテ軍港で追加の修理を受け、佐世保へ帰投した。
回天搭載母艦として
1944年8月14日から、佐世保にて回天搭載母艦への改装を受けた。後部にスロープを設置し、中央部上甲板上からスロープ部分まで回天の搭載・移動のための軌条を片舷1条ずつ設け、回天8基を搭載できるようにした[10]。搭載された回天は軌条により順次後部へ移動し、スロープから海中に発進することが可能である[10]。後甲板には回天を揚収するための20tクレーン(空母千歳から移設)が設置された[10]。これらの搭載のために、後部のタービンは取り外され、そのため最大速は36ノットから23ノットに低下した[10]。兵装は全て取り替えられ、12.7cm連装高角砲2基、25mm3連装機銃12基、25mm単装機銃31挺が装備された。また、22号水上電探が設置された[10]。艦尾の回天搭載軌条の間には爆雷投下軌条が2条設置された[11]。改修は1945年1月20日に完了した。主任務は回天の輸送と襲撃訓練支援(目標艦を務める)であったが[10]、本土決戦時には実際に攻撃を行うことも想定され[10]、襲撃任務を目的とした水上艦部隊である海上挺進部隊に編入された。北上は同戦隊を含め、回天を搭載した艦艇の中では、排水量・搭載数共に最大の艦である。
1945年3月19日、米海軍第58任務部隊の空母7隻が呉港を攻撃した(第1回呉軍港空襲)。240機以上の艦載機が停泊中の日本の艦船を空襲したが、北上は損傷を受けなかった[1]。7月、25mm単装機銃27挺が追加装備された。
1945年7月24日、第38任務部隊の空母6隻・艦載機200機が呉港を空襲した(第2回呉軍港空襲)。これにより北上は大破、航行不能となり、32人の乗組員が戦死した[1]。
戦後
戦後、本艦は主機械が損壊したままで、航行不能状態であったものの、主缶と補機類(発電機その他)の一部は使用可能であった[12]。このため、復員輸送支援の定係工作艦として使用されることとなり、1945年末に鹿児島へ曳航され、約半年間従事した[12][11]。1945年11月30日に除籍された。
1946年7月に長崎へ回航され、同年10月より三菱重工業長崎造船所で解体された[12]。艦体のうち二重底の一部がポンツーンとして流用されたという。
歴代艦長
艤装員長
- 坂元貞二 大佐:1920年6月11日 -
- (兼)坂元貞二 大佐:1920年11月15日 - 1922年3月15日
艦長
- 坂元貞二 大佐:1920年11月15日 -
- 山崎正策 大佐:1922年3月15日 -
- 高橋律人 大佐:1922年12月1日 -
- 河野董吾 大佐:1923年12月1日 -
- 吉川真清 大佐:1924年11月1日 -
- 松田利三郎 大佐:1925年4月15日 -
- 古川良一 大佐:1925年11月20日 - 1926年12月1日
- (兼)清宮善高 大佐:1927年1月10日 -
- 小檜山真二 大佐:1927年12月1日 -
- 下村正助 大佐:1928年12月4日 -
- 斎藤直彦 大佐:1929年10月5日 -
- 園田実 大佐:1929年12月5日 -
- 堀江六郎 大佐:1930年12月1日 -
- 草鹿任一 大佐:1931年11月14日 -
- 鮫島具重 大佐:1932年12月1日 -
- 武田盛治 大佐:1934年3月14日 -
- 井上保雄 大佐:1934年11月15日 -
- 松山光治 大佐:1935年10月10日 -
- 堀内馨 大佐:1937年12月1日 -
- 上野正雄 大佐:1938年12月15日 -
- 西岡茂泰 大佐:1940年10月19日 -
- 鍋島俊策 大佐:1940年11月1日 -
- 浦孝一 大佐:1941年3月15日 -
- 荒木伝 大佐:1941年9月1日 -
- 則満宰次 大佐:1941年11月28日 -
- 鶴岡信道 大佐:1942年9月5日 -
- 野村留吉 大佐:1943年5月17日 -
- 田中穣 大佐:1943年11月21日 -
- 加瀬三郎 大佐:1944年6月10日 -
- 清水正心 大佐:1944年8月29日 -
- 金岡国三 大佐:1944年12月1日 -
同型艦
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 [1] CombinedFleet.com: Kitakami Tabular Record of Movement;
- ↑ #戦隊行動調書p.9『一.一五 陸軍物資船団護衛隊(指揮9s) 9s(大井、北上) 27dg(白露、時雨) 32dg(芙蓉、刈萱、朝顔) 一.一六~一.三一 陸軍船団(約三二隻)護衛』
- ↑ #昭和16年12月~第9戦隊日誌(3)p.48『大発四隻宛搭載ノ為各艦発射機四基(七、八、九、一〇番聯管)及魚雷16本宛ヲ横須賀工廠及横須賀軍需部ニ預入ル。装填演習機内火艇一(北上ノミ)ヲ陸揚ス 陸戦隊員居住ノ為畳七〇枚ヲ借入ル』
- ↑ #昭和16年12月~第9戦隊日誌(3)p.49『今次実施の如く各艦大発四隻及高射砲三門宛搭載の為には最小限発射機四基を撤去の要あり』
- ↑ 5.0 5.1 日本の軍艦、110ページ
- ↑ #昭和16年12月~第9戦隊日誌(3)p.47
- ↑ #昭和16年12月~第9戦隊日誌(3)p.52『舞鶴鎮守府第四特別陸戦隊残留部隊(司令笹川少佐以下582名、野戦高射砲2門、同牽引車6台、25粍二聯装機銃6基、大発4隻、二米測距儀1基及千代田基地員(磯部中尉以下47名)』
- ↑ #昭和16年12月~第9戦隊日誌(5)p.68『3月15日/第九戦隊解隊 0900司令官退隊 将旗ヲ徹ス』
- ↑ #戦隊行動調書p.16『七.一 16Sより名取を除き大井北上を編入』
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 10.6 『日本海軍艦艇写真集 13 軽巡 天竜型・球磨型・夕張』 pp.104-105・111-112
- ↑ 11.0 11.1 Gardner, p. 238.
- ↑ 12.0 12.1 12.2 『日本海軍艦艇写真集 13 軽巡 天竜型・球磨型・夕張』 pp.106-107・112
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.テンプレート:Cite book
- Ref.テンプレート:Cite book
- Ref.テンプレート:Cite book
- Ref.テンプレート:Cite book
- Ref.テンプレート:Cite book
- Ref.テンプレート:Cite book
- 雑誌「丸」編集部 『写真|日本の軍艦 第8巻 軽巡Ⅰ』光人社、1990年、ISBN 4-76-980458-X
- 雑誌「丸」編集部 『日本海軍艦艇写真集 13 軽巡 天竜型・球磨型・夕張』 光人社、1997年
関連項目