加賀爪忠澄
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加賀爪 忠澄(かがつめ ただすみ、天正14年(1586年) - 寛永18年1月30日(1641年3月11日))は、江戸時代初期の旗本。扇谷上杉家の末裔で、武蔵国高坂館主。姓は加々爪とも表記する。加賀爪政尚の子。通称は甚十郎。官位は従五位下民部少輔。正室は安藤直次の娘。子に直澄、娘(石川総長正室)など。
徳川秀忠の家臣で、関ヶ原の戦いや大坂の陣に勲功を立てて従五位下民部少輔となり、5500石を知行して目付・江戸南町奉行・大目付などを歴任し、最終的には9500石に加増された。また、慶長17年(1612年)には、長崎にて来航禁止のマカオ船が着航したのを目撃、船を焼いたとも伝えられる。寛永18年(1641年)、京橋の大火災の消火中に死去し、家督は子の直澄が継いだ。利発な人柄で人脈も深く、大名間の取次ぎや斡旋、仲介に活躍した。忠澄と交流のあった細川忠興はその突然の死に際し日記の中で無念を発露している[1]。
寛永7年(1630年)、伊達政宗が3代将軍徳川家光を饗応することが決まり、家光が赴く前日に土井利勝、酒井忠世らが政宗を見舞った。この時忠澄も随伴したが、唐突に政宗から額を平手打ちされた。政宗にとっては軽いスキンシップ、挨拶のつもりであったが、忠澄は激昂し政宗の額に平手打ちを浴びせ返したという(『伊達家文書』より)。