元老院 (日本)
テンプレート:Infobox Legislature 元老院(げんろういん)は、明治初期の日本の立法機関。新法の制定と旧法の改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだけになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官と称した。
概説
1875年に大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退助らの大阪会議での合意に基づき、続いて出された立憲政体の詔書によって1875年4月25日左院にかわり設置された。当初は正副議長各1名が置かれ定員は無制限とされたが、程なく財政上の都合から同年11月25日に職制が改正されて正副議長各1名とこれを補佐する幹事2名(1886年廃止)、その他の議官28名の計32名が定数とされた。
議長は左大臣の兼務とされたが実際には一度もその事例は無く、設置当初は議長は空席で副議長の後藤象二郎が議長の職務を代行した。1875年11月の改正に伴い、これを補佐するために幹事が新設されて陸奥宗光・河野敏鎌が幹事となった。熾仁親王が議長に就任すると、岩倉具視の要請で1876年9月8日に国憲(憲法)草案起草の勅命が元老院に対して出された。これに基づいて2度の「国憲草案」(1876年10月及び1878年10月)が作成されたが、正院側からは酷評されて採用されなかった。また、このころの元老院の議論は低調で1878年1月20日付の「輿論雑誌」には、元老院でまともに議論をしているのは両幹事(陸奥・河野)と中島信行・細川潤次郎の4名だけと揶揄されている。しかも追い討ちをかけるように6月には幹事の陸奥宗光が立志社の獄の容疑者とされて元老院を追放されたのを機に、正院側から元老院の権力を抑制しようとする動きが現れ、以後正院の干渉を受けるようになった。1880年以後、定数は事実上無視されて知事や政府高官経験者が次の役職を得るまでの待機ポストの色合いを強める。廃止時には定員が91名にまで増員され、その多くが元老院廃止後にそのまま貴族院議員に転身する。
評価
制度的な制約などから主体的・独自的な機能や役割を充分に果たすことは出来なかったという評価が多い。しかし、明治9年に国憲起草の詔勅が下され、立法に係わる機関として明治23年に廃止されるまで法令審査に努めたこと、明治政府において公論尊重の方針が一貫して存在していたことの証明として元老院は評価される。[1]
主な人事
議長
- 有栖川宮熾仁親王 1876年5月18日 - 1880年2月28日
- 大木喬任 1880年2月28日 - 1881年10月21日
- 寺島宗則 1881年10月21日 - 1882年7月13日
- 佐野常民 1882年9月12日 - 1885年12月22日
- 大木喬任 1885年12月22日 - 1888年4月30日
- 柳原前光 1889年12月24日 - 1890年10月20日
副議長
- 後藤象二郎 1875年4月28日 - 1876年3月28日
- 河野敏鎌 1878年6月7日 - 1880年2月28日
- 佐々木高行 1880年3月13日 - 1881年10月21日
- 佐野常民 1881年10月21日 - 1882年9月12日
- 東久世通禧 1882年11月22日 - 1889年6月1日
- 柳原前光 1889年6月1日 - 1889年12月24日
- 楠本正隆 1889年12月27日 - 1890年10月20日
幹事
1875年11月-1886年3月設置
- 陸奥宗光 1875年11月28日 - 1878年6月10日
- 河野敏鎌 1875年11月28日 - 1878年6月7日
- 柳原前光 1878年6月7日 - 1880年3月8日
- 山口尚芳 1880年3月8日 - 1881年5月28日
- 細川潤次郎 1880年3月8日 - 1881年7月27日
- 東久世通禧 1881年7月12日 - 1882年11月22日
- 河瀬真孝 1882年11月22日 - 1883年5月23日
- 黒田清綱 1882年11月22日 - 1886年3月29日
- 細川潤次郎 1883年6月5日 - 1886年3月29日
議官
関連法令
- 元老院官制(明治19年勅令第11号)
- 元老院議長副議長議官書記官官等年俸(明治19年勅令第12号)
- 元老院廃止ノ件(明治23年勅令第255号)
- 元老院議長副議長議官特別賞与ノ件(明治23年勅令第256号)
脚注
参考文献
- 角田茂「太政官制・内閣制下の元老院 職制と勅任官人事を中心に」(明治維新史学会 編『明治維新の政治と権力』(吉川弘文館、1992年 ) ISBN 4642036377)
- ↑ 久保田哲「明治一〇年前半の元老院」2012年8月(『日本歴史』第771号、日本歴史学会、吉川弘文館)