保科正直

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保科 正直(ほしな まさなお、天文11年(1542年[1])- 慶長6年9月29日[1]1601年10月24日))は、戦国時代武将信濃国衆甲斐武田氏の家臣で先方衆。父は保科正俊[1]。正室は久松俊勝の娘・多劫姫。武田家臣で上野箕輪城内藤昌月の実兄。子に保科正光[1]保科正重保科正貞北条氏重栄姫黒田長政継室)、娘(安部信盛室)、貞松院小出吉英室)、娘(加藤明成室)など。通称は甚四郎。官職は越前守、弾正忠[1]。法名は天関透公建福寺[1]

生涯

父と共に甲斐武田氏に仕え、信濃国飯田方面を守備した[1]保科氏諏訪郡高遠氏家臣であったが、正俊の頃に甲斐武田家の直臣となった。武田譜代家老の内藤昌秀は実子がなく、正俊の子で正直の実弟にあたる千次郎(内藤昌月)が養子に迎えられている。

天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍の甲州征伐に際しては飯田城に籠城し、2月14日には織田信忠による攻勢を受けて坂西織部亮小幡因幡守らとともに高遠城へ逃亡している。高遠城では仁科盛信とともに籠城していたが城を退去し、実弟内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れる。

本能寺の変後の天正壬午の乱においては、昌月とともに後北条氏に帰属し[1]、高遠を奪還する。その後は甲斐において徳川家康が優勢に経つと、依田信蕃木曾義昌らが家康方に転じ、正直ら信濃国衆も徳川方に転じた。

武田遺領を家康が確保すると、2万5,000石を領した[1]。天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが起きると、家康は正直や諏訪頼忠小笠原貞慶ら信濃衆を木曾に派遣したが木曾攻めは充分な成果を上げれず、正直を抑えに残して撤退した[2]。天正13年(1585年)の真田昌幸上田城攻めなどに従軍して活躍した[1]。11月に石川数正が徳川家から出奔したのを機に松本の小笠原貞慶が12月3日に高遠城に攻撃をかけるが[1]、父保科正俊が鉾持除の戦いで退けた[2]。正直はその後、家康の異父妹久松氏と縁戚となって勢力を伸ばした[2]

天正17年(1589年)に豊臣秀吉が京都大仏を造営するに当たり、家康の命令で富士山の木材伐採を努めた[1]。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、家康の関東入部に伴って下総国多胡に1万石の領地を与えられた[1]。天正19年(1591年)の九戸政実の反乱鎮圧にも参加した[1]

慶長6年(1601年)9月29日、高遠城で死去した、享年60[1]

脚注

注釈

引用元

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P688
  2. 2.0 2.1 2.2 長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13

参考文献