侯景
テンプレート:基礎情報 中国君主 侯 景(こう けい)は、中国南北朝末期の武将。侯周の孫、侯標の子[1]。テンプレート:仮リンクの首謀者。
生涯
朔方(陝西省)の出身とも、鴈門(山西省)の出身ともいう。生家は六鎮の1つである懐朔鎮(内蒙古)の守備に従事していた胡族化した漢族とも、あるいは漢化した鮮卑系の貴族の家柄であるとも考えられている。北魏の爾朱栄軍で頭角を現し、北魏が東西に分裂すると東魏の高歓の旗下に入り、河南大行台に任じられる。高歓死去後、東魏への叛乱を起こし、支配する州郡と共に梁の武帝に帰順した。
その後、東魏の武将慕容紹宗に敗れ、寿春(安徽省)へ退いた。梁と東魏の間に和議成立の情勢となると、梁への叛乱を起こす。太清2年(548年)、梁宗室の蕭正徳を味方に取り込んで10万の兵を集め、都の建康に迫った。
翌年、梁の援軍の到着により一旦は和議が結ばれるが、3月になると侯景により建康は陥落、武帝は台城に幽閉され、5月には武帝は失意のうちに憤死した。当時の梁は、分裂した東魏・西魏の勢力を凌駕する国力を持っていたが、東魏から投降してきた1将軍により都城が陥落した原因としては、梁国内に分封された宗室の諸王が相互に牽制し、武帝の救出を積極的に行う者がいなかったことが考えられている。
武帝崩御後、侯景は簡文帝を擁立し、自らは相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事[2]に就任した。しかし簡文帝が自立する動きを察知すると簡文帝を弑殺、蕭正徳を除き、予章王蕭棟を擁立した。この時、侯景は漢王を称している。
天正元年(551年)10月、予章王から禅譲を受け、自らが皇帝に即位、国号を漢とし、元号を太始と定めた。しかし太始2年(552年)3月、江陵(湖北省)で梁帝に即位していた蕭繹が派遣した王僧弁及び陳霸先の義兵によって都を追われ、その途上で殺害された。
脚注
伝記資料
参考文献
関連項目
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