伏龍

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伏龍(ふくりゅう)

  1. 諸葛亮(孔明)の青年時代の通称。伏竜と書くのが主流。また、(ふくりょう)と読ませる事が多い[1]
  2. 第二次世界大戦末期の日本軍による特攻兵器のひとつ。本項にて解説。
  3. "伏兵"や""等の"隠れた危険"を暗に指す言葉。『聖闘士星矢』で暗黒聖闘士との戦いの最中、アンドロメダ瞬ドラゴン紫龍に助言した時の"暗喩[2]"として用いられた。

伏龍(ふくりゅう)は、第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争))末期の大日本帝国海軍による特攻兵器のひとつ。人間機雷。潜水具を着用し棒付き機雷を手にした兵士により、本土決戦における水際撃滅を狙った特攻兵器として、1944年に開発された。名称は「伏竜」ではなく「伏龍」と記述するのがより正確である。

概要

伏龍は海軍軍令部第二部長(戦備担当)黒島亀人少将の発案によるものといわれる。陸軍の肉薄攻撃(梱包爆薬を抱いて戦車に体当たりする)にヒントを得て考案された。航空機による特攻作戦は既に実施されていたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦では九三式中間練習機まで投入され、予科練の生徒たちは乗る飛行機がなくなり余剰人員となっていた。伏龍は、これらを「有効に活用」するため考案された兵器の一つである。もとはB-29が投下した磁気機雷を掃海するために開発されていた簡易潜水具を攻撃兵器に転用したもので、実験は横須賀防備戦隊で行われた。

本土決戦では、まず特攻機が米軍の機動部隊に体当たりし、輸送艦などが接近すれば人間魚雷回天や特攻艇震洋などの水上特攻部隊が迎撃、そして上陸用舟艇を水際で迎撃するのが伏龍という構想であった[3]

装備

ファイル:Fukuryu.png
アメリカ海軍が作成した伏竜のスケッチ

利用された潜水具は、1945年3月末に海軍工作学校が僅か1ヶ月で試作した代物で、逼迫する資材と戦況に対応するため、出来うる限り既製の軍需品を用いて製作された。粗末な工作のゴム服に潜水兜を被り、背中に酸素瓶2本を背負い、吸収缶を胸に提げ、腹に鉛のバンド、足には鉛をしこんだワラジをはいた。潜水兜にはガラス窓が付いているが、足下しか見えず視界は悪く、総重量は68kgにも及んだ。2ヶ月の短期間で予科練生徒数に見合う3,000セットが調達される予定であった。

伏龍の作戦では遊泳は考えられておらず、隊員は海底を歩いて移動することになっていた。個々の隊員は水中で方向を探る方法を持たないため、あらかじめ作戦海面の海底に縄を張っておき、これを伝いながら沖合に向かって展開する予定であった。海岸からの距離は縄の結び目の数で測られた。陸上との通信は不可能で、隣の隊員との連絡手段もなかった。海中にいったん展開すると、陣地変換はほとんど不可能であった。

潜水缶は伏龍の最大の欠陥部分であった。これは長時間の潜水を可能にするために考案された、半循環式の酸素供給機であった。呼気に含まれる二酸化炭素を、苛性ソーダを利用した吸収缶で除去、再び吸入する方式である。吸収缶には潜水艦用のものが転用された。実験では5時間という長時間の潜水を実現し、他の潜水具に見られる呼気からの気泡を生じないという利点があった。しかし、鼻で吸気して口から排気するよう教育されていたが[4]、実際には3、4回呼吸すると炭酸ガス中毒で失神しやすかった[5]上、吸収缶が破れたり蛇管が外れたりして呼吸回路に海水が入ると、吸収缶の水酸化ナトリウムは海水に溶解し、大きな溶解熱のために高温となった強アルカリ性の海水が潜水兜内に噴出し肺を焼くという、きわめて重大な欠陥があり、訓練中に横須賀だけで10名の殉職者を出している。

運用法

海中では視界も悪く動きも鈍くなるため、上陸用舟艇に向かって移動するのは事実上不可能であった。五式撃雷(通称・棒機雷)は長い柄を持っていたが、水の抵抗のある海中では自由にこれを振り回すこともできず、当初5mも長さがあったものが2mに切り詰められた。また棒機雷の炸薬量では、舟艇を直撃しないと被害を与えることはできなかったが、数メートル離れたところを通過しても刺突することは不可能で、隊員の直上を上陸用舟艇がたまたま通りかかった場合以外に攻撃のチャンスは無かった。しかも、部隊の展開密度を上げると棒機雷が炸裂した時の爆圧で、近くの隊員まで巻き添えになるどころか次々と誘爆してしまう問題点があった[5]。そもそも、海中での爆発による強烈な水圧は隊員に致命的なダメージをもたらすため、上陸に先立つ準備砲撃が付近の海中に落ちただけで、伏龍部隊の大部分は駆逐されてしまったであろう[5]。兵士を避難させるコンクリート製防御坑の計画はあったものの、終戦までに防御坑が構築されることはなかった。

このように机上の空論に基づく兵器であり、実戦に用いられた場合に成功する可能性はなかったといえる。視察した鈴木貫太郎首相すら、その実用性に否定的で、実戦使用に反対するほどであった[5]

配備

隊員の多くは、教育中止で本土決戦に向けて防空壕を掘っていた10代後半の予科練出身者であったが、緒戦で活躍した海軍陸戦隊の古兵も投入された。一般兵では呼吸のこつが呑み込めず事故が頻発したため、航空機搭乗員として身体能力に優れた予科練が選抜されたという[6]。選抜条件には「孤独に耐えうる者」が重視され、本来なら家を継ぐべきはずの長男が多く選ばれた[5]。志願制ではなく、命令であった[7]。伏竜部隊は鎮守府に所属し、横須賀5個大隊、呉2個大隊、佐世保2個大隊、舞鶴1個大隊が整備される予定であった。6月から横須賀対潜学校で先遣部隊要員480名への訓練が始まった。その後潜水訓練は、神奈川県横須賀鎮守府の野比海岸、広島県呉鎮守府の情島、長崎県佐世保鎮守府の川棚などで行われ、合わせて3,000人近くが訓練を受けた。米軍の本土上陸は9-10月との想定で、作戦は米軍の上陸作戦正面と考えられていた九十九里海岸などを想定していた。部隊の展開時期は10月末を目標にしていたが、途中で終戦をむかえたため、伏龍が実戦に投入されることはなかった。しかし1945年6月10日土浦海軍航空隊で訓練中の訓練生・教官が空襲を受け、その内281名が死亡している。

元俳優の安藤昇、小説家の城山三郎は、かつて伏龍訓練部隊の一員であった。

現存施設

東京九段下の靖国神社に特別攻撃隊の顕彰碑があるほか、併設の歴史博物館「遊就館」には、伏龍に使われていた潜水具と機雷のモデルが展示されている。 また、伏龍の待機陣地が神奈川県鎌倉市稲村ヶ崎に現存しているが、落石の危険があるため立ち入り禁止となっている。また、神奈川県横須賀市野比海岸には第七十一嵐部隊の本部が置かれ、海岸は訓練場となっていたが、関連すると思われる防空壕やトーチカが残存する[5]

主題とした作品

  • ゲーム
    • 『防げ本土上陸 人間機雷 伏龍』(メールウェアゲーム)
      • 個人製作の、本機(?)の再現ゲーム。Windows版のみ存在する。英語版も存在する上、元が元であるが故のネタゲーなのだが、その再現度はリアル志向ゆえに高い。プレイするには開発元の「日本戦争ゲーム開発」サイトへのユーザ登録が必要。
  • 小説
    • 熊谷達也『群青に沈め ~僕たちの特攻~ 』角川書店

脚注

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参考文献

外部リンク

  • 三国志演義』で使われる。なお正史である『三国志』の註にも同様の記事があるので『演義』の創作ではない。
  • この言葉には二つの意味がある。一つは暗黒聖闘士のその特性から紫龍の敵は同じ龍座の守護星座を持つ戦士である事、もう一つは、"伏せた龍"即ち"鳴りを潜めている(起こすと極めて危うい事になる)危険"を、夫々意味していた。結果として紫龍は洞窟内の暗闇の中で"二人の敵"と戦う事となる。
  • #花の予科練p.189
  • #花の予科練p.192
  • 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 飯田則夫『TOKYO軍事遺跡』交通新聞社 2005年 ISBN 4-330-83405-7
  • #花の予科練p.193-194
  • #花の予科練p.188