伏見天皇
伏見天皇(ふしみてんのう、文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))は日本の第92代天皇(在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))。諱は熈仁(ひろひと)。書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人としても知られる。
系譜
後深草天皇の第二皇子。母は、左大臣洞院実雄の娘、玄輝門院・藤原愔子。
- 中宮:西園寺(藤原)鏱子(永福門院)(1271-1342) - 西園寺実兼女
- 典侍(准三后):五辻(藤原)経子(中納言典侍) - 五辻経氏女
- 第一皇子:胤仁親王(後伏見天皇)(1288-1336)
- 洞院(藤原)季子(顕親門院)(1265-1336) - 洞院実雄女
- 洞院(藤原)英子 - 洞院公宗女
- 第二皇女:誉子内親王(章義門院)(?-1336)
- 典侍:権大納言局 - 中院(源)具氏女
- 第六皇子:尊悟入道親王(1299-1359)
- 三善衡子(播磨内侍) - 三善俊衡女
- 第五皇子:尊円法親王(1298-1356)
- 正親町(藤原)守子(東御方) - 正親町実明女
- 皇子:寛胤法親王
- 皇子:道凞法親王
- 高倉茂通女
- 第七皇子:尊凞法親王
- 春日局 - 僧任快女
- 第二皇子:恵助法親王(1289-1328)
- 西御方 - 僧深源女
- 第八皇子:聖珍法親王
系図
略歴
持明院統の後深草天皇の働きかけにより、1275年、大覚寺統の後宇多天皇の皇太子になる。1287年、後宇多天皇の譲位により即位。これ以後、大覚寺統と持明院統が交代で天皇を出す時代がしばらく続くことになる。後深草上皇は2年余りで院政を停止したため、以後天皇親政が続く。1289年、自分の皇子である後伏見天皇を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まる。
1290年には宮中に浅原為頼の一族が押し入る天皇暗殺未遂事件が起きる(浅原事件)。この事件は初め、北条氏による霜月騒動により所領を没収されたことによる反抗かと思われたが、後に三条実盛の関与が発覚し、亀山上皇が裏で策動していたと言う疑惑があった。
治世中門閥貴族による政治の打破などに力を入れるが、幕府の干渉が強まると1298年、後伏見天皇に譲位して院政を執り行った。しかし、3年後の1301年には、大覚寺統の巻き返しにより後二条天皇に譲位している。1308年に幕府への工作が成功し、第四皇子・花園天皇の即位を実現させ、再び院政を敷いた。
伏見天皇の時代は、持明院統と大覚寺統が解決策を見つけられず綱引きをしていた時代である。1317年、崩御。
伏見天皇の政治は皮肉にも政敵である亀山上皇の政策を踏襲したものであり、朝廷における訴訟機構の刷新や記録所の充実などにより政治的権威の回復に積極的に取り組んだ。また、皇位継承に介入する鎌倉幕府に対して強い不信感を持ち、在世中は倒幕画策の噂が立てられるほどであった。このため、天皇の和歌の師で一番の側近であった京極為兼が二度も流刑となっているのは、天皇が反幕府的な動きを取ったことに対する見せしめではないかという説も唱えられている。
在位中の元号
諡号・追号・異名
退位後長く住んだ洛南の離宮伏見殿にちなみ、伏見院と追号。また、持明院統代々の仙洞御所であり伏見天皇崩御の場でもある持明院殿とも称された。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は方形堂。深草北陵には持明院統歴代が葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。