伊予鉄道城北線
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(伊予鉄道道後線から転送)
|} 城北線(じょうほくせん)は、愛媛県松山市の古町駅から平和通一丁目停留場までを結ぶ伊予鉄道の鉄道路線。
前身は道後鉄道の路線で、松山市内線の他の路線が軌道法による軌道となっている中で、唯一の鉄道事業法による鉄道となっており、鉄道の閉塞信号機による自動閉塞式で運転されている。
路線データ
運行形態
- 1 環状線下り(松山市駅前→松山駅前→古町→木屋町→鉄砲町→上一万→大街道→松山市駅前)
- 2 環状線上り(松山市駅前→大街道→上一万→鉄砲町→木屋町→古町→松山駅前→松山市駅前)
- 上記の系統が城北線全区間を通る。昼間時間帯10分間隔で運転。ダイヤ上では1周36分であり、4分は市駅での待機時間となっている。
- 車いす対応の2100形は、運用ダイヤが決まっていないため、運用の半数が同車であることもあれば全く運用されていない場合もある。
- 伊予鉄道では、環状線でも上り・下りで区別を行っている。
- 平日の朝に、古町8:01発(まれに7:51発の場合あり)のJR松山駅前行き臨時電車が運行される(古町→木屋町→鉄砲町→上一万→大街道→JR松山駅前)。全線5系統表示で運行。毎日運転の環状線下り車両は続行運転となる。
- 単線のため増発が難しく、大学入試センター試験などの時には2両続行(連結ではない)で運転されることがある。
- 毎年8月第1(または第2)日曜日に行われる松山港まつり・三津浜花火大会開催時は環状線上り市駅23時16分発まで終電が延長される。
遅延時は古町駅のCTCセンターから無線で現在位置の問い合わせを行い、必要に応じて行き違い変更を行っているものの酷い遅延には効果がないのが現状である。離合停留場はすべてスプリングポイントのため、CTCセンターは信号の操作のみである。
歴史
道後鉄道により1895年に開業した。軌間762mmの軽便鉄道で、当初は木屋町 - 道後間は現在の城北線とは異なり、現在の樋又通りを東進し、現在の愛媛大学(当時は城北練兵場があった)の北側を通るルートだった。伊予鉄道に合併後、電化・1067mm軌間への改軌が行われ、1927年に市街地に近い現在のルートに切り替えられた。木屋町 - 道後間の廃線跡[1]は樋又通りとなっている。
なお、以前は木屋町方面から道後温泉方面へ直通する形になっていたが、1969年に城北線・城南線の環状運転を開始する際に新設の平和通一丁目から勝山町方面に向かう形に変更された。このとき、平和通一丁目 - 上一万間は新たに城南線として線路を敷設し、城北線の平和通一丁目 - 上一万間は廃止という手続きが取られた。
- 1895年(明治28年)8月22日 道後鉄道により古町 - 道後 - 松山(その後「一番町」と改称、現在の大街道)間が開業。※
- 1900年(明治33年)5月1日 道後鉄道が伊予鉄道に合併。道後線となる。
- 1911年(明治44年)8月8日 道後線全線の軌間を762mmから1067mmに改軌、電化。
- 1926年(大正15年)5月2日 道後線 道後 - 一番町間廃止。
- 1927年(昭和2年)4月3日 城北線 木屋町 - 一万(現在の上一万)間が開業。道後線の古町 - 木屋町間を城北線に編入、木屋町 - 道後間は廃止。
- 1969年(昭和44年)12月1日 上一万での城南線への合流を道後方面への合流から、警察署方面への合流に変更。これに伴い、城北線の平和通一丁目 - 上一万間は廃止され、城南線として新たに敷設される。
※開業区間を三津口 - 道後 - 松山間とする説がある。なお、高浜線の古町駅は道後鉄道開業前の1889年7月20日に三津口から古町に改称している。また、萱町六丁目駅は1911年に開業した当初、三津口を名乗っていた(1967年改称)。
停留場一覧
停留場名 | 営業キロ | 接続路線 |
---|---|---|
古町駅 | 0.0 | 伊予鉄道:高浜線・大手町線 |
萱町六丁目停留場 | 0.5 | |
本町六丁目停留場 | 0.9 | 伊予鉄道:本町線 |
木屋町停留場 | 1.1 | |
高砂町停留場 | 1.4 | |
清水町停留場 | 1.8 | |
鉄砲町停留場 | 2.2 | |
赤十字病院前停留場 | 2.5 | |
平和通一丁目停留場 | 2.7 | 伊予鉄道:城南線 |
脚注
- ↑ 廃止鉄道ノート 松山電気軌道 (1920年の 「伊予鉄道 電気」 を参照)