阪神尼崎海岸線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今津出屋敷線から転送)
移動先: 案内検索
テンプレート:BS-headerテンプレート:BS-datenテンプレート:BS-tableテンプレート:BSテンプレート:BS2テンプレート:BS2テンプレート:BS2

|} 尼崎海岸線(あまがさきかいがんせん)は、かつて兵庫県尼崎市出屋敷から東浜までを結んでいた阪神電気鉄道の鉄道路線。「海岸線」と呼称している文献もある。また東浜まで路線があった頃は「東浜線」と呼称していたこともあった。

概要

1929年昭和4年)4月に開業。尼崎臨海工業地帯への足として運行。

全線単線ながら、軌道敷は複線分確保されていた。車両は当初阪神本線の車両が入っていたが、戦後国道線の車両で運行されていた、側窓の大きさから「金魚鉢」と呼ばれた71形に置き換えられた。

尼崎海岸線のルートには現在、阪神バスが「宝塚ローカル線」、「西宮尼崎線(通称・臨港線)」として、尼崎市営バスの〔80-1・2〕、〔85〕が走っている(ただし、いずれも高洲までで本数も僅少。尼崎スポーツの森行きは高洲は通過となる)。かつては旧東浜駅付近にも尼崎市営バスが運行されていたが現在は運行されていない[1]

路線データ

  • 路線距離(営業キロ):1.7km
  • 軌間:1435mm
  • 駅数:3駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:無し(全線単線)
  • 電化区間:全線電化(直流600V)

歴史

  • 1929年昭和4年)4月14日 出屋敷 - 東浜間開業
  • 1951年(昭和26年)7月19日 高洲 - 東浜間休止
  • 1960年(昭和35年)4月15日 高洲 - 東浜間正式廃止
  • 1962年(昭和37年)12月1日 出屋敷 - 高洲間廃止

今津出屋敷線

尼崎海岸線は、本来「今津出屋敷線」の一部として計画されたものである。阪急今津線の開業に刺激され、自社沿線防衛のため特許を出願し、受理されたものである。当時、阪神急行電鉄(阪急)は今津から南進して浜手回りで阪神尼崎に向かい、そこから阪急塚口阪急伊丹を抜け、宝塚へ向かう計画を立て、特許を出願していた。

結局阪神本線を境に、以北は阪急、以南は阪神に特許が降りて阪神の防衛策は一応成功した。引き続き阪神は臨港地区の工業地域化に伴う輸送手段として尼崎側から建設に着手。阪神の発電所が隣接する東浜まで開業した。路線はこのまま途中の高洲から別れ、前大浜(尼崎市西南部)、浜甲子園、中津浜を経て今津に向かう予定であった。戦時中、路線予定地は軍部に接収され飛行場となるが、武庫川線が建設されたことに伴いこれと連絡することとなり、武庫川線の終点洲先(ただし、位置は現在の武庫川団地前駅に相当) - 前大浜間が特許され、河口近くに橋脚が建設されたが直ちに終戦を迎えたため、工事は中断された。戦後は沿線の地盤沈下による浸水被害のため、高洲 - 東浜間0.7kmが運休となり、僅か一駅間だけの路線となる。

その後も東浜までの復活は見送られ、阪神側も「今津出屋敷線」の計画そのものを見直すこととなったのか、1960年(昭和35年)4月、今津 - 中津浜間の特許を失効させ、高洲 - 東浜間も正式に廃止した。そして1962年(昭和37年)12月、第二阪神国道建設工事に際し、立体化してまで運行するほどの路線でないと判断。そのまま全線廃止された。廃止補償として臨時駅として開設されていた阪神本線の尼崎センタープール前駅を常設駅とする工事が行われた。なお、「今津出屋敷線」の未成残存区間は1970年(昭和45年)11月に特許を失効。甲子園線の一部として戦前運行され、戦後運休中だった中津浜 - 浜甲子園間も1973年(昭和48年)9月に正式廃止。「今津出屋敷線」は完全に未成線となった。

駅一覧

出屋敷駅 - 高洲駅 - 東浜駅

接続路線

脚注および参考文献

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:阪神電気鉄道の路線

  1. 尼崎市営バスは【85】中浜線(出屋敷 - 東発電所)系統が運行されていた。本数も平日・土曜日の朝と夜間の数本のみであった。東浜駅は東発電所停留所(現廃止)付近にあった。