五十嵐冬樹
テンプレート:騎手 五十嵐 冬樹(いがらし ふゆき、1975年9月30日 - )はホッカイドウ競馬桑原義光厩舎所属の騎手[1]。北海道深川東商業高等学校中途退学。
来歴
地方競馬教養センター長期騎手課程の58期生で同期に木村健(兵庫)、吉井竜一(大井)、佐々木明美(北海道・引退)などがいる[1]。
ホッカイドウ競馬を代表する騎手の一人で、コスモバルクの主戦騎手として知られる。初騎乗は1993年10月4日札幌競馬場でのアイボリーロマン(2着)。初勝利は同年10月20日帯広競馬場でのコウチファスター。
1999年にホッカイドウ競馬のリーディングジョッキーに輝くと、2001年以降は5年連続でリーディング1位を維持している(2006年現在通算6回)。2006年7月19日旭川競馬場のアドミラルサンダーで国内通算1,000勝を達成した(内訳:地方競馬957勝・中央競馬43勝)。
中央競馬(JRA)にも積極的に参戦。初騎乗は1997年8月2日札幌競馬場第6競走のトップヘリオス(4着)。初勝利は1999年9月18日の札幌競馬場第6競走のライズライズライズ。2003年の天皇賞(秋)ではトレジャーに騎乗。また、コスモバルクとのコンビでJRA重賞3勝を挙げているほか、モエレジーニアスで2005年の函館2歳ステークスに勝利。
2005年秋のJRA騎手免許試験を受験したが不合格。
2006年にはコスモバルクとシンガポール航空国際カップに出走し、地方競馬所属馬、地方競馬所属騎手として初めて海外G1競走を制し、翌2007年も同馬で同競走に出走し、2着と健闘した。同年9月に左足首を怪我し3日間騎乗を休止した。10月11日には、道営年間最多勝記録タイとなる130勝目(最終的には146勝)を挙げた。10月28日に開催された第136回秋の天皇賞で騎乗のコスモバルクが最後の直線で左右によれ戒告処分を受けた。また、この影響で11月13日にジャパンカップでは他の騎手に乗り替わることが発表された[2]が、2009年の第29回ジャパンカップから引退まで再び手綱を取った。
2010年11月29日から翌2011年1月28日まで南関東公営競馬で期間限定騎乗を行う。南関東での所属は川崎競馬場池田孝厩舎[3]。
2012年11月25日から翌2013年1月25日にも南関東公営競馬で期間限定騎乗を行う。ただし2010年~2011年とは違い南関東での所属は浦和競馬場桑原義光厩舎に変更された。[4]。
コスモバルクとのコンビでの斜行に関しては、普段は温厚な武豊でさえ、自身の出演するTV番組で「他の騎手が気をつけてくれているからいいけど、(斜行癖を)知らない騎手がいたら危ない」「ルメールや幸四郎が乗っている時はまっすぐ走ってるんですけどね」「(斜行は)お決まりですからね」等のコメントを残している。
エピソード
- 中学生の時に競馬中継をテレビで見て騎手になることを志す。その後一度高校へ入学するが、病気になった父親が回復次第退学し騎手の道へ進むためにあえて第一志望の高校を避けていた[5]。
- 地方競馬所属の騎手になったのは「試験日が地方競馬教養センターの方が早かったから」[6]。当時中央競馬と地方競馬の違いは理解していなかった。
主な勝利
- コスモバルク - ラジオたんぱ杯2歳ステークス、弥生賞、北海優駿、セントライト記念、シンガポール航空国際カップ、OROカップ
- イングランディーレ - ブリーダーズゴールドカップ
- プリンシパルリバー - 全日本2歳優駿
- モエレジーニアス - 函館2歳ステークス
- モエレソーブラッズ - 兵庫ジュニアグランプリ
- ハセノガルチ - 報知グランプリカップ
- クラキングオー - 北海優駿、道営記念
- フリートアピール - 北海優駿
脚注
- ↑ 1.0 1.1 『Furlong 1993年10月号』、地方競馬全国協会、1993年10月、P28。
- ↑ 以後、コスモバルクにはJRAの松岡正海やケント・デザーモが騎乗した。
- ↑ ホッカイドウ競馬所属騎手の期間限定騎乗について - ホッカイドウ競馬
- ↑ ホッカイドウ競馬所属騎手の期間限定騎乗について - ホッカイドウ競馬
- ↑ ナンバー 602号 p22
- ↑ ナンバー 602号 p22