九条道家

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九条 道家(くじょう みちいえ、建久4年(1193年)7月 - 建長4年2月21日1252年4月1日))は、鎌倉時代前期の公卿。摂政九条良経の長男。妻は太政大臣西園寺公経の娘等。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父。官位従一位准三宮摂政関白左大臣。光明峯寺殿、峯殿を号す。京都九条通に東福寺を建立した。

生涯

朝廷内で出世

幼少時から祖父の九条兼実に寵愛され、祖父に引き取られて養育された。建仁3年(1203年)2月13日、元服すると同時に正五位下に叙任される。その後も侍従左近衛中将従三位権中納言と栄進を続ける。元久3年(1206年)春、父の良経が急死すると、道家はその後を継ぐ。

承元3年(1209年)3月、姉の立子を皇太弟の守成親王(後の順徳天皇)の妃として娶わせる。そのため、その後も左近衛大将権大納言内大臣右大臣と栄進を続ける。更に順徳天皇と姉立子との間に懐成親王(後の仲恭天皇)が生まれると、東宮補佐役となる。建保6年(1218年)12月には叔父の九条良輔が死去したこともあり、左大臣にまで栄進した。これは天皇家の外戚関係になったことと、岳父の西園寺公経鎌倉幕府との関係が深かった事から[1]、幕府の後ろ盾によるところが大きかった。

鎌倉幕府と提携

建保7年(1219年)1月、第3代将軍・源実朝がその甥の公暁によって暗殺されると、道家の母が頼朝の姪に当たることから、執権北条義時より3男の藤原頼経を第4代将軍にと要請される[2]。道家はこれに応じて同年6月、頼経(2歳)を鎌倉に下向させた。それより先の4月には順徳天皇が懐成親王に譲位して上皇となり、懐成親王(2歳)は践祚して仲恭天皇となり、道家はその外叔父に当たるために摂政となった。ところが実朝の死で朝幕関係が崩れたため、後鳥羽上皇によって承久の乱が起こされる。これは幕府軍の勝利に終わり、7月には仲恭天皇は廃位された。道家は後鳥羽上皇や順徳上皇たちの討幕計画には加わらなかったが摂政を罷免された。

嘉禄元年(1225年)、幕府の陰の実力者であった北条政子が死去したため、翌年1月に鎌倉に下向していた頼経は正式に征夷大将軍に任命される。承久の乱後、朝廷では幕府との関係が深かった岳父の西園寺公経が最大実力者として君臨していたため[1]、政子の死や頼経の将軍就任も手伝って、道家は安貞2年(1228年)12月、近衛家実の後を受けて関白に任命された。翌年11月には長女の藻壁門院後堀河天皇女御として入内させた。

全盛期 太閤として

寛喜3年(1231年)7月、長男の九条教実に関白職を譲ったが、なおも朝廷の最大実力者として君臨し、従一位にまで栄進する。しかも長女の藻壁門院に秀仁親王(後の四条天皇)が生まれ、秀仁親王が貞永元年(1232年)10月に後堀河天皇の譲位を受けて践祚すると、道家は外祖父として実権を完全に掌握し、長男の教実は摂政となった。しかし教実は文暦2年(1235年)3月に早世したため、道家が再び摂政となる。このため、九条家は朝廷の最大有力家として君臨したが、これに対して近衛家が猛反発したため、道家は嘉禎3年(1237年)に娘の仁子を近衛兼経に嫁がせた。

嘉禎4年(1238年)、出家して法名は行恵とし、以後は禅閤として権勢を誇る。仁治2年(1241年)正月に行われた四条天皇の元服の際には本来はに遣わされるべき報告の使者が代わりに道家の元に遣わされ(『宗雅卿記』。なおこの時期には治天にあたる院は不在)、同年末には孫娘(長男・教実の娘)の宣仁門院を四条天皇の女御として入内させる。しかし四条天皇は仁治3年(1242年)に12歳で夭折する。道家は次の天皇として順徳天皇の皇子で縁戚に当たるに当たる岩倉宮忠成王を推薦したが、北条泰時はかつて承久の乱に積極的に加担した順徳天皇の子孫から天皇を擁立することに強硬に反対したため、これは実現せずして終わった。なお、順徳天皇の兄の土御門天皇は承久の乱に関与しなかったため、その皇子の邦仁王(後嵯峨天皇)が四条天皇の後を受けて践祚することとなった。

権勢の衰退

その後、次男の二条良実が祖父の公経の後押しもあって関白となったが、祖父の後ろ盾でなったことを見てもわかるように、後嵯峨天皇の下で公経と土御門定通(天皇の大叔父)が政治の実権を握った一方で、天皇家との関係を失った道家の実力は衰退していた。

だが、公経が死去すると、道家は勝手に公経の遺言と称して関東申次の職を継承(ただし、公経の生前から「将軍の実父」として公経とともに関東申次の職務にあたっていたとする説もある)し、さらに次男の良実を排除して(道家と良実は不仲で、良実は父から義絶されていた)、寵愛する4男の一条実経を関白として擁立する(後深草天皇践祚後は摂政に転じる)。しかも独断で関東申次を3人制として実経と近衛兼経を任命するなど、朝廷内での権勢を取り戻す。だが、このような独断専行を見せ始めたために次第に朝廷における信望を失っていった。また、幕府に対しても将軍の実父である事を理由にその政策への干渉を始め、北条氏得宗家に反発する北条一族や御家人達の支持を集めた事から、幕府側からも危険視されるようになっていった。

失脚、最期

そして、寛元4年(1246年)、鎌倉で頼経が執権・北条時頼によって、将軍職を廃される(宮騒動)。更に直後に起きた名越光時らの陰謀に頼経が関与していた事に対する連座に加えて、道家が親しくしていた雅成親王(後鳥羽天皇の皇子で承久の乱後但馬に流されていた)が幕府によって一時帰京を許された折に、後嵯峨院と後深草天皇を排して同親王を皇位に就けようとしていたとする容疑によって、道家は関東申次の職を罷免(公経の子・西園寺実氏に交代)され、実経も摂政を罷免させられた。これにより道家は政治的立場を完全に失った。なお、名越の陰謀にも関与していた三浦光村が後の宝治合戦で兄の泰村とともに討たれた際に「(名越の陰謀の時に)道家の指示に従って時頼を討っておくべきだった」と悔やんだとされていることから、一連の「反得宗家」の陰謀に道家自身が積極的に関与していた可能性も指摘されている。

更に建長3年(1251年)末、孫の藤原頼嗣(第5代将軍)と足利氏を中心とした幕府転覆計画が発覚し、それに道家が関係しているという嫌疑がかかる。道家はその中で翌年2月21日に死去してしまった。享年60。策謀が頓挫したばかりか鎌倉幕府側に謀議が露見し、時頼からの追及を受けて晩年は憔悴しきっていた。

死因は病死と言われているが、頼嗣失脚の報を聞いてそのまま卒倒して死去したとする説や、隠然たる影響力を持つ道家の存在を苦々しく思った幕府によって暗殺されたとする説もある。

官歴

※日付=旧暦

  • 1203年建仁3)2月13日、元服し、正五位下に叙位。禁色を許される。3月2日、侍従に任官。7月8日、左近衛中将に転任。12月20日、従四位下に昇叙し、左近衛中将如元。
  • 1204年(建仁4)1月13日、播磨介を兼任。改元して元久元年4月13日、従四位上に昇叙し、左近衛中将・播磨介如元。
  • 1205年元久2)1月9日、従三位に昇叙し、左近衛中将如元。3月9日、権中納言に転任し、左近衛中将如元。8月9日、正三位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。
  • 1206年(元久3)1月6日、従二位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。5月30日、橘氏長者宣下(藤原氏が兼帯する例)。6月16日、左近衛大将を兼任。左近衛中将を去る。
  • 1207年建永2)1月5日、正二位に昇叙し、権中納言・左近衛大将・橘氏長者如元。2月10日、中納言に転任。左馬寮御監を兼任か?。左近衛大将・橘氏長者如元。
  • 1208年承元2)7月9日、権大納言に転任し、左近衛大将・左馬寮御監・橘氏長者如元。
  • 1212年建暦2)6月29日、内大臣に転任し、左近衛大将・左馬寮御監・橘氏長者如元。
  • 1215年建保3)12月10日、右大臣に転任し、左近衛大将・左馬寮御監・橘氏長者如元。
  • 1218年(建保6)2月26日、左近衛大将・左馬寮御監を辞す。11月26日、東宮(のちの仲恭天皇こと、懐成親王)傅を兼任。12月2日、左大臣に転任し、東宮傅・橘氏長者如元。
  • 1221年承久3)4月20日、摂政宣下。藤原氏長者宣下。橘氏長者を止むか?7月8日、摂政・藤原氏長者を止む。
  • 1222年(承久4)、橘氏長者宣下。
  • 1228年安貞2)12月24日、関白宣下。12月27日、藤原氏長者宣下。橘氏長者を止むか?
  • 1231年寛喜3)7月5日、従一位に昇叙し、関白・藤原氏長者を辞す。
  • 1235年文暦2)3月28日、摂政宣下。藤原氏長者宣下。
  • 1237年嘉禎3)3月10日、摂政・藤原氏長者を辞す。
  • 1238年(嘉禎4)4月24日、准三宮宣下を固辞。4月25日、出家。
  • 1252年建長4)2月21日、薨去。享年60

系譜

脚注

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関連項目


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  1. 1.0 1.1 当時の西園寺公経の影響力を疑問視する説(本郷和人『人物を読む日本中世史 頼朝から信長へ』講談社選書メチエ2006年、ISBN 4062583615 など)もある。
  2. 父 道家、母 倫子はともに頼朝の同母妹 坊門姫の孫にあたり、頼経は父母双方から源氏の血を引いている。