中山恭子
テンプレート:政治家 中山 恭子(なかやま きょうこ、1940年1月26日 ‐ )は、日本の政治家。次世代の党所属の参議院議員(2期)。
在ウズベキスタン特命全権大使、内閣官房参与、国連改革欧州諸国担当大使、内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)、内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)、拉致問題担当大臣、たちあがれ日本参議院幹事長代理などを歴任。
目次
概要
官界での活動
群馬県立前橋女子高等学校を経て東京大学文学部仏文学科を卒業。大学卒業後、一年間の研究生活を送る。一時外務省に勤務したが、東京大学法学部へ学士入学する。1965年国家公務員採用上級甲種試験(経済職)に合格し1966年に大蔵省に入省。のちに夫となる中山成彬は大蔵省時代の同期である(他に武藤敏郎、中島義雄、長野庬士(元大蔵省証券局長)などがいる)。東京大学法学部は中退。
国際通貨基金派遣職員、大蔵省大臣官房調査企画課、大臣官房企画官、東京税関成田税関支署長を経て、1989年6月に大蔵省初の女性課長(理財局国有財産第二課長)に就任。1991年6月には女性初の地方支分部局長として四国財務局長に就任し約2年間を高松市で過ごす。大臣官房参事官兼大臣官房審議官を最後に1993年9月退官。
退官後の活動
国際交流基金常務理事を経て、1999年7月、特命全権大使(在ウズベキスタン及び在タジキスタン)に就任。その直後の1999年8月23日、隣国キルギスの南西部オシェ州で日本人鉱山技師4人を含む7人がIMU(ウズベキスタン・イスラム運動)と見られるウズベキスタン反政府武装グループに拉致されるキルギス日本人誘拐事件が発生する。キルギス政府に交渉を一任せよとの外務省の方針に背き、救出劇の先頭に立った。武装グループに対して影響力を持つタジキスタン政府や関係者を通じて交渉・説得を行い、人質の解放に成功する[1]。
大使退任直後の2002年9月拉致被害者家族担当の内閣官房参与に就任、翌月北朝鮮に拉致被害者5人を出迎えた。それ以降も拉致問題に尽力し、2004年9月に任務を果たし終えたとして辞任[2]。
2006年9月26日、第1次安倍内閣の内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に任命。同時期に政府に設置された拉致問題対策本部の事務局長に就任。
政界への転身
2007年7月に第21回参議院議員通常選挙へ自由民主党から比例区で立候補し、385,909票を獲得して党内得票数第3位で当選した。同年8月27日に発足した第1次安倍改造内閣で留任、同年9月7日に拉致問題対策本部事務局長職を離任した。同年9月26日に発足した福田内閣でも内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任。11月15日、町村派に入会。
2008年、福田康夫改造内閣にて、内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)として初入閣を果たした。さらに、福田康夫改造内閣では、特命事項として拉致問題担当と公文書管理担当が発令され、国務大臣として同時に兼任することとなった。以降は大臣として拉致問題の解決を担当したが、およそ1ヶ月後の内閣総辞職にともない内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)および拉致問題担当、公文書管理担当を退任。
同年9月24日に発足した麻生内閣では中山の入閣は見送られ、拉致問題担当の特命事項は内閣官房長官の河村建夫が兼任することになった。拉致問題担当の国務大臣に中山を任命しなかったことに対して総理大臣官邸に批判が殺到したため[3]、中山は内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任。
2010年6月18日、夫・成彬が同年7月の第22回参議院議員通常選挙にたちあがれ日本から出馬することが確実になったことを受け、「夫を支援するため」として、自民党に離党届を提出し[4][5][6]、6月21日、夫と共にたちあがれ日本へ入党した[7]。
2012年11月、たちあがれ日本が太陽の党と改称し、さらに日本維新の会へ合流したことに伴い同党の所属となった。
2013年7月に第23回参議院議員通常選挙へ比例区で立候補し、306,341票を獲得して党内得票数第2位で2回目の当選。
2014年8月の日本維新の会分党に伴い次世代の党に参加。党参議院会長、同党紀委員長に就任した。
不祥事
- 2009年、夫である中山成彬が第45回衆議院議員総選挙にて宮崎1区から立候補した。成彬は以前引退を表明していたことから、自由民主党宮崎県支部連合会は上杉光弘の擁立を決定しており、両者とも党本部の公認が得られぬまま激しい選挙戦が展開された。恭子は選挙対策総本部長に就任しサポートしたが成彬は落選し、さらに恭子の秘書2名が公職選挙法違反容疑で書類送検された[8][9]。
政策
- 憲法改正に賛成[10]。
- 集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直すことに賛成[10]。
- 日本の核武装について検討を始めるべきとしている[10]。
- 村山談話および河野談話についていずれも見直すべきとしている[10]。
- 選択的夫婦別姓制度に反対[11]。
主な所属団体・議員連盟
人物
- 酒豪であり、マージャンが趣味テンプレート:要出典。
- 雑誌『正論』は特集「2012年注目の政治家50人を値踏みする」で、稲田朋美とともに10点満点中10点と評価した[12]。
- 幸福実現党の大川きょう子党首(当時)が、同党結党以前の幸福の科学の支援候補として名前を挙げたことがある[13]。
略歴
- 1963年3月 東京大学文学部仏文学科卒業
- 1966年4月 大蔵省入省
- 1975年6月 国際通貨基金
- 1985年6月 大臣官房企画官
- 1987年7月 東京税関成田税関支署長
- 1989年6月 理財局国有財産第二課長
- 1991年6月 四国財務局長
- 1993年6月 大臣官房審議官 9月 国際交流基金常務理事
- 1999年7月 駐ウズベキスタン特命全権大使
- 2002年9月 退官 内閣官房参与
- 2004年9月 内閣官房参与 辞任
- 2005年3月 国連改革欧州諸国担当大使(2005年9月辞任)
- 2005年4月 早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授
- 2005年4月 香川大学地域マネージメント研究科客員教授
- 2006年9月 内閣総理大臣補佐官(拉致問題担当)
- 2007年7月 参議院議員(全国比例代表)
- 2008年8月 内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)として初入閣。
- 2008年9月 内閣総理大臣補佐官(拉致問題担当)
家族
- 夫 中山成彬(大蔵官僚、政治家)
- 長男 中山隆介(財務官僚)
社会的活動
出演
- 『日いづる国より』司会進行(日本文化チャンネル桜)
著書
- 『ウズベキスタンの桜』(KTC中央出版、2005年)
論文
脚注
関連項目
外部リンク
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
結党
|style="width:40%; text-align:center"|太陽の党 参議院幹事長代理
初代:2012年11月
|style="width:30%"|次代:
(日本維新の会に合流)
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|style="width:30%"|先代:
結党
|style="width:40%; text-align:center"|次世代の党 参議院会長
初代:2014年 -
|style="width:30%"|次代:
現職
- 転送 Template:End
- ↑ 詳細は、平成18年2月27日提出の質問趣意書111号「キルギスにおける日本人拉致事件に関する質問主意書」、及び中山による回想録『ウズベキスタンの桜』(KTC中央出版)に詳しい。同じく、内外の関係筋からの聞き取りを行ったジャーナリストであるアハメド・ラシッドによる『聖戦―台頭する中央アジアの急進的イスラム武装勢力』(講談社)、及び当時の情勢の参考として国連職員である川端清隆による『アフガニスタン―国連和平活動と地域紛争』(みすず書房)がある。また、『週刊新潮』(2005年12月1日号)の「『中山恭子』元参与が告発したキルギス人質『八百長解放劇』」に詳しく説明されており、(http://www.asyura.com/0502/war69/msg/755.html)に同記事の一部抜粋がある。テンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 佐藤勝巳「組閣人事の危うさ――拉致で抗議殺到」『2008.09.26-組閣人事の危うさ―拉致で抗議殺到―』現代コリア研究所、2008年9月26日。テンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 「衆院選公選法違反容疑、中山恭子氏秘書ら書類送検」『衆院選公選法違反容疑、中山恭子氏秘書ら書類送検 : 週間ニュース : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)』読売新聞、2009年9月19日。テンプレート:リンク切れ
- ↑ 中山氏派運動員を書類送検、NHK宮崎のニュース 2009年9月19日
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 テンプレート:Cite news
- ↑ 自民党茨城県連HP
- ↑ 『正論』2012年3月号 50-91頁。
- ↑ テンプレート:Cite web