中勢鉄道
|} 中勢鉄道(ちゅうせいてつどう)とは、かつて三重県にあった鉄道・軌道路線(軽便鉄道の一種)を運営していた会社である。本稿では、同社が運営していた鉄道・軌道路線についても記す。
会社沿革
- 1920年(大正9年)2月15日 大日本軌道伊勢支社によって運営されていた軽便鉄道線の引き受けを目的に会社創立[1]
- 1928年(昭和3年)5月5日 参宮急行電鉄(近畿日本鉄道の前身)の傘下に入る[3]
- 1929年(昭和4年) 中勢鉄道名義で久居 - 参急中川(現、伊勢中川)間の免許申請。のちに参宮急行電鉄へ免許[4]を譲渡し[5]、同社の津支線(現、近鉄名古屋線)の一部として開業
- 1943年(昭和18年)2月12日 運営路線の全廃により、解散を申請
- 1944年(昭和19年)5月8日 このときの清算報告書を持って会社消滅
路線データ
(1942年10月時点)
- 路線距離:20.6km
- 軌道線:5.4km(岩田橋駅 - 久居駅)
- 鉄道線:15.2km(久居駅 - 伊勢川口駅)
- 駅数:21
- 軌間:762mm
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:なし(全線非電化)
- 動力:蒸気・内燃
路線沿革
- 1908年(明治41年)11月10日 大日本軌道伊勢支社の路線として久居 - 聖天前間開業(蒸気動力)
- 1909年(明治42年)1月1日 聖天前 - 阿漕間開業
- 1月10日 阿漕 - 岩田橋間開業
- 1917年(大正6年) 鉄道省(国鉄)参宮線(現、紀勢本線)阿漕駅との間の貨物連絡線完成
- 1920年(大正9年)2月17日 中勢鉄道の路線となる
- 1921年(大正10年)12月1日 久居 - 大仰間開業[6]
- 1924年(大正13年)8月4日 鉄道免許状下付(一志郡大三村 - 同郡川口村間)[7]
- 1925年(大正14年)7月1日 大仰 - 伊勢二本木間開業[8]
- 1928年(昭和3年)11月19日 ガソリン動力併用認可(気動車導入)
- 1930年(昭和5年)5月18日 参宮急行電鉄津支線の開業により、久居駅で連絡を図るようになる
- 1931年(昭和6年)9月11日 鉄道省名松線開業により、伊勢川口駅で接続を図るようになる
- 1942年(昭和17年)12月1日 岩田橋 - 久居間廃止[10]
- 1943年(昭和18年)2月1日 久居 - 伊勢川口間廃止[11]
廃止の理由は参急線・名松線などと並行する形になり、速度が遅い中勢鉄道線の利用が減少したためである。
駅一覧
岩田橋駅 - 弁才天駅[12] - 阿漕駅 - 聖天前駅 - 二重池駅 - 相川駅 - 久居駅 - 寺町駅 - 万町駅 - 戸木駅 - 羽野駅 - 大師前駅 - 七栗駅 - 其倉駅 - 石橋駅 - 片山駅 - 大仰駅 - 誕生寺駅 - 亀ヶ広駅[13] - 伊勢二本木駅 - 広瀬駅 - 伊勢川口駅
久居駅を境に軌道法に基づく軌道線と地方鉄道法に基づく鉄道線に分かれていたが、運行形態など実質的には一つの路線であった。
接続路線
- 阿漕駅:鉄道省参宮線(現、紀勢本線) - 双方の駅は約300m離れていた。
- 久居駅:参宮急行電鉄津支線→名古屋線(現、近鉄名古屋線)
- 石橋駅:参宮急行電鉄本線(現、近鉄大阪線) - 参急石橋駅(現、伊勢石橋駅)と徒歩連絡が可能であった
- 伊勢川口駅:鉄道省名松線
車両
- 蒸気機関車 キ22
- 明治から昭和にかけて使用された小型機関車で、大日本軌道系列の軽便鉄道を中心に日本全国に同タイプのものが見られた。背が低く煙突が細長いことから「へっつい」と俗称された。これとほぼ同じタイプの機関車がJR熱海駅前広場に交通記念物として展示されている。これは大日本軌道小田原支社で使用されたものである。
- 客車 ボコ1形
- 気動車[14]
- カ1・2
- 1928年11月・日本車輌製造本店製で、日本車輌の記録上は同年に中勢鉄道の親会社になっていた参宮急行電鉄が発注した扱いとされている。定員30人(座席15人)。1927年に井笠鉄道が導入して先鞭を付けた日本車輌式単端式気動車 の系統に属する半鋼製車で、フォード・モデルT用20HPエンジンを搭載するが、カーブ対策として前輪に単車軸ではなくボギー台車を装備した。当初、転車台の備わった軌道線区間用で、前面突出したボンネットの先に更に保護網を下げていた。1932年3月認可で専用の転車台を伊勢川口駅に設置したため、全線運行可能となっている[1]。2両は1936年から翌年にかけエンジンをフォードA型に換装、1940年から翌年にかけ燃料統制に対応して木炭ガス発生装置を搭載した。廃線後は三重鉄道(現・近鉄湯の山線・内部線・八王子線。三重交通当時は三重線と総称)シハ37・38から1944年の三重交通移管に伴いナ131・132となったが、三重線各線の電化に伴い1948年までに廃車。
- カ3・4
- 1930年7月・川崎車輌製。定員50人(座席24人)。全長9m級の両運転台・半鋼製2軸ボギー車で、大型のブダDW-6型エンジンを搭載。車端部の幅が狭くなった2扉車。高床だが610mmの小径車輪台車を採用、内側車軸を乗り越したプロペラシャフトで車端側車軸を駆動してシャフトのずれを小さくするカーブ対策を図った。両運転台車のため当初から全線直通運行可能で、車体両端に軌道線用の保護網を装備。後述1939年の車両脱線事故車は定員50名の大型半鋼製ボギーガソリンカーとする記録[15]からカ3・4のいずれかと見られるが、大破などによる廃車には至らず事故復旧された模様である。1941年11月認可で2両とも付随台車側に車台を延長し、淡路鉄道開発の淡鉄式木炭ガス発生炉を装備。廃線後、カ3は三重鉄道シハ83から三重交通ナ151となり、三重線電化後は無動力付随車のサ461となって松阪線に転属。またカ4は関西急行鉄道法隆寺線キド5となったが同線が1945年休止した後は三重交通松阪線に転属してサ460、のちサ462となった。電車・電気機関車に牽引され、1964年の松阪線廃止まで使用された。
青谷車両脱線事故
1939年(昭和14年)11月1日早朝、中勢鉄道の列車(ガソリンカー)が軌道線区間の青谷(津市)でカーブを曲がりきれず脱線・転覆した。この日は興亜奉公日で、車内は女学校の生徒で満員だった。この事故で女子生徒2人が死亡、多数が重軽傷[16]を負う大惨事になった。
当時の久居の歩兵第33連隊(今の久居駐屯地・第33普通科連隊)から、馬で駆けつける保護者もいたという。この事故は安全面を問われ、参急の開通などで衰えつつあった中勢鉄道の経営にさらに追い討ちをかけた。
事故は久居発が約6分遅延したことから遅延回復を図った運転士が、カーブに速度超過状態で列車を進入させたことによって発生したもので、運転士は業務上汽車転覆致死罪で起訴されたが、裁判で運転士の弁護人が、汽車転覆罪を規定する刑法125条では、処罰対象を「汽車又ハ電車」と規定しており、事故車両の「ガソリンカー」は含まれない、として汽車転覆罪は適用できず無罪だと主張した。それに対し大審院(現在の最高裁)は1940年(昭和15年)8月22日に、法律の「汽車又ハ電車」という文言自体に捕らわれず、立法趣旨に鑑みて本質的にガソリンカーも汽車に含まれると判断し、有罪判決を下した[17]。この判例は刑法学では罪刑法定主義で禁じられている類推解釈の例外である、論理解釈かつ拡張解釈の一例とされている。
脚注および参考文献
- ↑ 以下の位置に戻る: 1.0 1.1 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- 元の位置に戻る ↑ 2月18日許可「軌道敷設特許権譲渡」『官報』1920年2月20日(国立国会図書館デジタル化資料)
- 元の位置に戻る ↑ 取締役金森又一郎、種田虎雄『日本全国諸会社役員録. 第37回』(昭和4年)(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- 元の位置に戻る ↑ 「鉄道免許状下付」『官報』1928年8月11日(国立国会図書館デジタル化資料)
- 元の位置に戻る ↑ 1930年2月26日許可4月1日実施『鉄道統計資料. 昭和5年度』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- 元の位置に戻る ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1921年12月6日(国立国会図書館デジタル化資料)
- 元の位置に戻る ↑ 「鉄道免許状下付」『官報』1924年8月7日(国立国会図書館デジタル化資料)
- 元の位置に戻る ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年7月4日(国立国会図書館デジタル化資料)
- 元の位置に戻る ↑ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年12月5日(国立国会図書館デジタル化資料)
- 元の位置に戻る ↑ 「軌道運輸営業廃止」『官報』1943年2月10日(国立国会図書館デジタル化資料)
- 元の位置に戻る ↑ 「鉄道運輸営業廃止」『官報』1943年3月2日(国立国会図書館デジタル化資料)
- 元の位置に戻る ↑ 今尾 (2008) では弁財町
- 元の位置に戻る ↑ 今尾 (2008) では亀広
- 元の位置に戻る ↑ 湯口(2004) p163-167、p201-202
- 元の位置に戻る ↑ 刑集第19巻540による。以下同じ
- 元の位置に戻る ↑ 刑集では80名余
- 元の位置に戻る ↑ 刑集