上村頼孝
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上村 頼孝(うえむら よりよし / よりたか[1]、永正14年(1517年) - 永禄10年4月1日(1567年5月9日))は肥後国相良氏の武将。上村頼興の次男で、17代当主・相良晴広の実弟。左衛門太夫。上村城主。子は上村頼辰、上村長陸、上村利行、女(菱刈美濃室)、女(東頼乙室)。
父・頼興の死後に上村氏を継いだが、兄、晴広の後を継いだ相良義陽と家督をめぐって対立し、弟の上村頼堅、稲留長蔵と共に弘治3年(1557年)6月に反乱。菱刈重任や北原氏500余名からの援軍も得たものの、これに敗れて同年9月20日(8月13日とも)北原氏の治める飯野(現・宮崎県えびの市)へと逃亡した。
永禄2年(1559年)7月29日に義陽に帰国を許され士卒700余名と共に帰還し水俣城に住んだ。しかし、永禄10年に義陽より蓑田信濃、高橋駿河らが頼孝誅殺の為に差し向けられる。それに対し深水源八郎という者が深水長智へ、頼孝への仕打ちとしてこちらの侍が一人も死なない事は礼儀に反すると申し立て、自ら相果てる役となった。頼孝と源八郎は互いに槍を合わせ、頼孝は源八郎を突き殺すと自ら切腹して果てた。享年51。法名は「本山蓮光」。
脚注
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