上杉定勝
テンプレート:基礎情報 武士 上杉 定勝(うえすぎ さだかつ)は、出羽米沢藩第2代藩主。初代藩主上杉景勝の長子。
生涯
生母で景勝の側室である四辻氏の実家・四辻家は西園寺家の一門で、公家の名門(羽林家)である。四辻氏は定勝を生んで100日余り後に死んだため、直江兼続・お船の方夫妻が養育に当たった。
慶長15年(1610年)、2代将軍徳川秀忠に御目見した。このとき、千徳の名を授かる。
元和9年(1623年)2月13日、江戸城に登城し、将軍秀忠に接見、従四位下に叙し、侍従に任官。弾正大弼を兼任。同年5月13日、父の景勝が死去したため家督を相続する。寛永3年(1626年)8月9日、左近衛権少将に転任し、弾正大弼如元。
これより先の寛永元年に将軍の計らいで鍋島勝茂の娘と婚姻し、寛永11年(1634年)、3代将軍徳川家光の上洛に従った。寛永20年(1643年)、会津藩(加藤家)2代藩主加藤明成の除封処理を行う。また、上杉氏の菩提寺である林泉寺と直江氏の菩提寺であった徳昌寺との僧録の地位をめぐっての争いの結果、徳昌寺を破却した。正保2年(1645年)に42歳で死去、その跡は嫡男の綱勝が継いだ。
藩政
寛永15年(1638年)に六尺五寸一歩の三百一反制をもって、総検地を実施し、貢租制度を整備。また奉行、郡代、代官などの藩政、郷村支配体制を整備し、直江支配体制から藩主直属支配体制への移行を推進する。
江戸幕府の指令を受けて、キリシタン取締りを強化、寛永5年(1628年)に甘粕信綱(右衛門)を処刑するなど、領内で藩士を含む多数のキリシタンを逮捕、死罪に処し、寛永16年(1639年)に吉利支丹横目を郷村に配置した。
米沢藩士に対して「他家の風をまねすることなく、万事質素律儀を作法を旨とし、衣服は小袖上下や桐袴などは無用であり、もっぱら文武忠孝に励むこと」という法令を出しており、この法令は後に上杉治憲の初入部の際の「御条目」の添書に使われている。