ワシントン・キャピタルズ

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ワシントン・キャピタルズ
Washington Capitals

ワシントンD.C.</span>
創設1974年
所属カンファレンス
所属ディビジョン
  • メトロポリタン
歴代チーム名
  • ワシントン・キャピタルズ(1974 - )
本拠地
収容人員: 20,000人
チームカラー
  • 赤、白、青
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 なし
アブコワールド なし
カンファレンス優勝 (1回) 1998
ディビジョン優勝 (8回) 1989・2000・2001・2008
2009・2010・2011・2013
プレジデンツトロフィー (1回) 2010
組織
オーナー: モニュメンタル・スポーツ・アンド・エンタテイメント
GM: ジョージ・マクフィー
HC: アダム・オーツ
主将: アレクサンダー・オベーチキン

ワシントン・キャピタルズWashington Capitals)はアメリカ合衆国ワシントンD.C.を本拠としているナショナルホッケーリーグNHL)所属のプロアイスホッケーチームである。

キャップス (Caps) などと愛称されることもある。

歴史

ワシントン・キャピタルズは、1975 - 1976 シーズン からNHLに参戦したが、いきなり80試合67敗、おまけにロードゲームでは僅か1勝と不名誉なリーグ記録を作ってしまった。1970年代は不遇のシーズンを重ね、1983年にデニス・マルク(Dennis Maruk)、 マイク・ガートナー (Mike Gartner) 及びボビー・カーペンター (Bobby Carpenter) の爆発的なゴールラッシュで初めてプレーオフ進出を果した。しかし、結局この年のスタンレー・カップ覇者となるニューヨーク・アイランダースの前に第1ラウンドで姿を消した。 

このあとチームは14年連続でプレーオフに参加するが、結局毎年悲嘆をかこつことになる。1980年代のキャピタルズはレギュラーシーズンではそこそこの成績を収めるのであるが、「がっかりさせるやつら(choker)」との評判を拭い去ることはできなかった。 ガートナー 、カーペンター 、マイク・リドリー (Mike Ridley) 、デイブ・クリスチャン (Dave Christian) 、 ディーノ・シサレッリ(Dino Ciccarelli )、ロッド・ラングウェイ(Rod Langway)あるいはケヴィン・ハッチャー(Kevin Hatcher)といった綺羅星のごとき選手を取り揃えながら、当時はプレイオフでも第2ラウンドに進出したのは僅か1回だけ、1990年のウェールズ地区決勝でもボストン・ブルーインズに4連敗で軽くいなされてしまう。

1990年代半ばには、キャピタルズはスタンレー・カップへの出場機会をなんとしても得ようと、無駄と思えるあがきを行う。上り調子にあった右ウイングのピーター・ボンドラ(Peter Bondra) 、ディフェンスのセルゲイ・ゴンチャー(Sergei Gonchar) 、センターのジョー・ジュノー(Joe Juneau) (1994にブルーインズから移籍したときには、既に往年の力はなかった。)らはいたものの、チームの主力選手は既に盛りを過ぎたベテランばかりであった。1993年のプレーオフ対ニューヨーク・レンジャース戦では、チーム史上でも最悪の事態が起こる。デイル・ハンター(Dale Hunter)がシリーズ勝利を決める得点を上げた後で、ピエール・タージョン(Pierre Turgeon)に対し悪質な打撃を加えたとして21試合の出場停止処分となってしまうのであった。

しかし、キャピタルズは1998年についに "chorker" のイメージを払拭することをやってのけた。ボンドラが52ゴールを上げチームの牽引車となり、ベテランのジュノー、アダム・オーツ (Adam Oates) が十分にその持ち味を発揮、そしてゴーリーのオラフ・コルジグ(Olaf Kolzig)がセーブ率 .920 を上げ、ブルーインズ、オタワ・セネターズバッファロー・セイバーズ(第6戦で劇的な再延長ゴール)を連破、ついにチーム史上初のスタンレー・カップ決勝に辿り着いた。しかし、決勝では圧倒的なデトロイト・レッドウィングスの前になすすべなく、4連敗で敗退した。 

1999年には、前年度の強さを失い元の弱小チームに戻って、プレーオフに進出できず。その後も2年間はともに第1ラウンドでピッツバーグ・ペンギンズの前に敗退した。2001年の夏には、1990年代のNHLを代表するスター選手、ヤロミール・ヤーガー (Jaromir Jagr) を破産寸前の騒動が起こったペンギンズから獲得した。この新戦力にも拘らず2002年はプレーオフ進出を逃した。

2002年のオフシーズンにもキャピタルズは、フリーエージェントで評価の高かったロバート・ラング (Robert Lang) を獲得するなど登録選手の入れ替えを図る。2003年は、再びプレーオフ出場するが、第1ラウンドでタンパベイ・ライトニングに序盤2連勝と好スタートを切るが、その後に4連敗を喫しまたしても、ファンを失望させた。

2004年の前半、チームは経費節減のため高給選手の大量放出に踏み切る。 ヤロミール・ヤーガーはレンジャーズに、その後すぐにボンドラをオタワ・セネターズにトレードで放出する。また、ロバート・ラングはデトロイトに、ゴンチャーはボストンに移籍させた。なお、ロバート・ラングの放出については、シーズン中盤でのチーム得点王の移籍であり、NHL史上類を見ない出来事である。

2004年のNHLドラフトでは、全体1位指名権を獲得し、ロシアの天才アレクサンドル・オベチキン(Alexander Ovechkin)を選択した。2004-2005シーズンは2004年から2005年のNHLロックアウトでNHLの全試合が中止となったため、オベチキンは母国ロシアで、同僚の若きスター、アレクサンダー・セミン(Alexander Semin)(2004年に19歳でキャピタルズ加入)とプレーしていた。またコルズィグ 、ブレンダン・ウィット(Brendan Witt)、ジェフ・ハルパーン(Jeff Halpern)ら他の選手も、ヨーロッパでプレーをした。

2005年もチームは不振を極める。1998年のファイナル進出時のメンバー二人のうちの一人、ウィトがトレード志願でナッシュビル・プレデターズにトレードされるなどチームは低迷し続けたが、オヴェチキンが期待を裏切らずに新人王を獲得した。 2006年にはキャプテンだったハルパーンまで抜けた上、オベチキンが昨年ほどの成績を残せなかった。

2007-08シーズンを控えキャピタルズはチームロゴ、ユニフォームのデザインを過去のものをリファインしたものに変更した。 DFのトム・ポティ、FWのマイケル・ニーランダーなどを獲得し、オベチキンが自身最高となる65ゴール112得点、彼のラインメート、トレード期限間際で獲得したクリストバル・ヒュエ (Christobal Huet)の活躍もあり、チームは実に5年ぶりにプレーオフ出場を果たした。

2008-09シーズンはオヴェチキンが50ゴールを連続で達成しただけでなく、ディフェンスマンのマイク・グリーンが30ゴールを突破(ディフェンスマンで30ゴールを突破するのはまさに偉業である)。地区1位の活躍で、プレーオフ出場を決めたが、2回戦でシドニー・クロスビーらペンギンスとの「夢の対決」に敗れ去った。また、コルジグが移籍したため、1998年ファイナル進出時のメンバーは誰一人としていなくなった。

2009年12月、キャプテンのクリス・クラーク(Chris Clark)がトレードされ、オベチキンがついにキャプテンに任命された。この年は圧倒的な強さを見せ、会長賞 (President's trophy) を獲得したが、プレーオフではモントリオール・カナディアンズにまさかの1回戦敗退を喫した。翌2010-11年は、守備面を強化。一時は8連敗など不振に沈み、オベチキンはキャリアワーストの1年を過ごしてしまったが、またしても東カンファレンス1位の座を射止めた。

年度別成績

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GP W L T OL GF GA PTS 最終順位 プレイオフ
1974-1975 80 8 67 5 - 181 446 21 ノリス5位 不出場
1975-1976 80 11 59 10 - 224 394 32 ノリス5位 不出場
1976-1977 80 24 42 14 - 221 307 62 ノリス4位 不出場
1977-1978 80 17 49 14 - 195 321 48 ノリス5位 不出場
1978-1979 80 24 41 15 - 273 338 63 ノリス4位 不出場
1979-1980 80 27 40 13 - 261 293 67 パトリック5位 不出場
1980-1981 80 26 36 18 - 286 317 70 パトリック5位 不出場
1981-1982 80 26 41 13 - 319 338 65 パトリック5位 不出場
1982-1983 80 39 25 16 - 306 283 94 パトリック3位 地区準決勝敗退
1983-1984 80 48 27 5 - 308 226 101 パトリック2位 地区決勝敗退
1984-1985 80 46 25 9 - 322 240 101 パトリック2位 地区準決勝敗退
1985-1986 80 50 23 7 - 315 272 107 パトリック2位 地区決勝敗退
1986-1987 80 38 32 10 - 285 278 86 パトリック2位 地区準決勝敗退
1987-1988 80 38 33 9 - 281 249 85 パトリック2位 地区決勝敗退
1988-1989 80 41 29 10 - 305 259 92 パトリック1位 地区準決勝敗退
1989-1990 80 36 38 6 - 284 275 78 パトリック3位 カンファランス決勝敗退
1990-1991 80 37 36 7 - 258 258 81 パトリック3位 地区決勝敗退
1991-1992 80 45 27 8 - 330 275 98 パトリック2位 地区準決勝敗退
1992-1993 84 43 34 7 - 325 286 93 パトリック2位 地区準決勝敗退
1993-1994 84 39 35 10 - 277 263 88 アトランティック3位 カンファランス準決勝敗退
1994-1995 48 22 18 8 - 136 120 52 アトランティック3位 カンファランス準々決勝敗退
1995-1996 82 39 32 11 - 234 204 89 アトランティック4位 カンファランス準々決勝敗退
1996-1997 82 33 40 9 - 214 231 75 アトランティック5位 不出場
1997-1998 82 40 30 12 - 219 202 92 アトランティック3位 スタンレー・カップ決勝敗退
1998-1999 82 31 45 6 - 200 218 68 南東3位 不出場
1999-2000 82 44 24 12 2 227 194 102 南東1位 カンファランス準々決勝敗退
2000-2001 82 41 27 10 4 233 211 96 南東1位 カンファランス準々決勝敗退
2001-2002 82 36 33 11 2 228 240 85 南東2位 不出場
2002-2003 82 39 29 8 6 224 220 92 南東2位 カンファランス準々決勝敗退
2003-2004 82 23 46 10 3 186 253 59 南東5位 不出場
2005-2006 82 29 41 - 12 237 306 70 南東5位 不出場
2006-2007 82 28 40 - 14 235 286 70 南東5位 不出場
2007-2008 82 43 31 - 8 242 231 94 南東1位 カンファランス準々決勝敗退
2008-2009 82 50 24 - 8 272 245 108 南東1位 カンファランス準決勝敗退
2009-2010 82 54 15 - 13 318 233 121 南東1位 カンファランス準々決勝敗退

スタンレーカップ戦績

優勝

準優勝

1997-1998

外部リンク

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