バッファロー・セイバーズ

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バッファロー・セイバーズ
Buffalo Sabres

ニューヨーク州バッファロー</span>
創設1970年
所属カンファレンス
所属ディビジョン
  • アトランティック
歴代チーム名
  • バッファロー・セイバーズ(1970 - )
本拠地
収容人員: 18,690人
チームカラー
  • 青、黄、銀、白
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 なし
アブコワールド なし
カンファレンス優勝 (3回) 1975・1980・1999
ディビジョン優勝 (6回) 1975・1980・1981・1997
2007・2010
プレジデンツトロフィー (1回) 2007
組織
オーナー: ホッケー・ウエスタン・ニューヨーク・ホッケー
GM: ティム・マレー
HC: テッド・ノーラン
主将: --

バッファロー・セイバーズBuffalo Sabres)はアメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローを本拠としているナショナルホッケーリーグNHL)所属のプロアイスホッケーチームである。

歴史

バッファロー・セイバーズは1970年にNHLに加盟した。その前身は、AHLのバッファロー・バイソンズ (Buffalo Bisons) であり、バイソンズは同リーグで数年の間強豪チームとして成功を収めていた。チームの発足は順調で、オフシーズンのNHLドラフトでも全指名順位中第1位で後の殿堂入り選手のセンター、ジルベール・ペロー(Gilbert Perreault)を引き当てた。同選手は新人ながら38ゴールを上げた(この年カルダー記念賞=最優秀新人賞を受賞)。しかし、チームはプレイオフ進出を逸した。

1972-73シーズンには、レネ・ロベール(Rene Robert)、ジルベール・ペロー(Gilbert Perreault) 及び新人のリック・マルタン (Rick Martin) で組んだフォワードラインは1970年代でも最強のラインの一つとして数えられ、ファンからは俗に"フレンチ・コネクション (The French Connection) " と名付けられた。(なお、この命名は同名の映画とこれらの選手が皆フランス系カナダ人であることにちなむ。)1973年、チームはわずか創立2シーズン目にして初のプレイオフ進出を果すが準々決勝でモントリオール・カナディアンズ(この年スタンレー・カップ優勝)の前に屈した。

1973-74シーズンはプレイオフ進出を逃し凡庸な成績に終わったものの、翌1974-75のレギュラーシーズンはNHL史上タイとなる好成績で終え、伝説的な第3戦「霧の試合 (Fog Game) 」を含むスタンレー・カップ決勝シリーズではフィラデルフィア・フライヤーズと対戦し、チームはシリーズ初勝利を上げる。(なお、前述の「霧の試合」には次のようにユニークなエピソードがある。まず、この年(1975年)5月のバッファローは異常に気温が高く、その試合の一部は濃霧の中で行われたため「霧の試合」と呼ばれるのであるが、観客の多数は霧のため試合の模様を見ることができなかった。また、霧の中のフェイスオフの最中にリンク上を横切るコウモリを見つけたセイバーズのセンター ジム・ローレンツ (Jim Lorentz) は、スティックでこれを叩き落とした。NHLの試合中に選手が直接的に動物を殺したのは前代未聞の出来事であった。)結局セイバーズはシリーズ2勝4敗でスター・ゴーリー、バーニー・ペアレント (Bernie Parent) を擁し万全のフライヤーズの前に敗れた。

1975-76シーズンには、"フレンチ・コネクション"に50ゴールを上げた Danny Gare が新たに加わって、セイバーズの得点力は依然好調であったが、プレイオフ準々決勝でニューヨーク・アイランダーズに敗れた。これら4選手の活躍もあって、セイバーズは1970年代後半に好調を維持したが、1980年のレギュラーシーズンでカンファランス優勝に輝いたほかはスタンレーカップ決勝トーナメント進出に至らなかった。

1980年にはレネ・ロベール(Rene Robert) がコロラド・ロッキーズ(後のニュージャージー・デビルス)に、また1981年にはリック・マルタンがロサンゼルス・キングスに相次いでトレードで放出された。さらに1987年には 17年間に渡ってセイバーズに所属し、数期チームのキャプテンを務めたジルベール・ペロー(Gilbert Perreault)が引退した。1980年代セイバーズのスター選手にはジルベール・ペロー(Gilbert Perreault)のほか、タフでかつ技巧を誇った Mike Foligno 、ディフェンスのフィル・ハウズリー(Phil Housley) 、左ウイングのデイブ・アンドレチャク (Dave Andreychuk) らがいた。しかし80年代を通じて、たった2度しかプレイオフ第1ラウンドを突破することはできなかった。

1989年には、ベルリンの壁の崩壊に続いて、旧ソビエト連邦の若手トップ選手がNHLへと走り、セイバーズは アレクサンドル・モギルニー(Alexander Mogilny) と契約を行った。センターのパット・ラフォンテーヌ(Pat LaFontaine) の活躍とともに、モギルニーは1992-93シーズンにリーグトップタイ(ウィニペグ・ジェッツテーム・セラニ:Teemu Selanne と並ぶ)の76ゴールとその本領を発揮し、チームは久しぶりの決勝第1ラウンド突破を成し遂げた(第2ラウンドでこの年スタンレー・カップ優勝のモントリオール・カナディアンズに敗退)。なお、この第1ラウンド対ボストン・ブルーインズ第4試合の延長戦でブラッド・メイ (Brad May) が決勝点を上げたときのベテランラジオ・アナウンサー、Rick Jeanneret の実況アナウンス「メイが決めた!(May Day!)」はリーグの語り草になっている。

また1992-93シーズンには、セイバーズはチーム史上最も重要と思われるトレードを敢行し、シカゴ・ブラックホークスからゴーリーのドミニク・ハシェックを獲得した(ハシェックは、この前2シーズン、ブラックホークスの控えゴーリーに甘んじていた。)。"支配者 (Dominator)"の称号を冠せられたハシェックは翌期からセイバーズの先発ゴーリーを務め、瞬く間に自身がホッケー史上でも稀有なゴーリーであることを証明して見せた。ハシェックは、長年のNHLゴーリー記録の数々を早々に更新し、NHL及び国際試合においてその後数年間、抜群の守護神としてアイスホッケー界に君臨した。

1998年、セイバーズはハシェックをはじめ、エンフォーサーのマシュー・バーナビー (Matthew Barnaby) 、左ウイングの ミロスラフ・サタン(Miroslav Satan) 、右ウイングのドナルド・オーデット(Donald Audette) 、センターのマイケル・ペカ(Michael Peca) らベテラン選手がそれぞれの持ち場で力を発揮しカンファレンス決勝に進出するが、第6戦でワシントン・キャピタルズの前に敗退する。

1999年は、40ゴールを決めたサタンに加え、新たにピッツバーグ・ペンギンズからセンターのスチュ・バーンズ(Stu Barnes)、またワシントン・キャピタルズからはジョー・ジュノー(Joe Juneau)を獲得した。ミハル・グロセク(Michael Grosek)は自身最高のシーズン成績を収め、セイバーズは再びスタンレー・カップ決勝戦に駒を進めた。このときの対戦相手は、ダラス・スターズであった。このシリーズ7連戦の第6ゲームで、ブレット・ハル (Brett Hull) は、再々延長戦で決勝ゴールを決め(もっとも、ハルのスケートが明らかにゴール・クリーズを犯していたことから、未だに物議をかもしている。後述(注)参照)、シリーズに終止符を打ちスターズがスタンレー・カップを獲得した。

  • (注)ゴール・クリーズとはゴールネット前のエリアであり、1999年当時のホッケーのルール上は攻撃側選手がこのエリアにいる場合のゴールは無効とされていた。その当時スターズの地元の『ダラス・モーニングスター (Dallas Morning News)』紙のホッケー担当記者だったキース・ゲイヴ(Keith Gave)ですらも、このゴールの妥当性に疑問を呈している。

その翌年は疲弊し意気消沈した選手達は不本意なシーズンを送り、プレイオフ第1ラウンドでフィラデルフィア・フライヤーズに敗北した。2000-2001シーズンは、キャプテンのペカが契約のこじれから戦列参加せず、その後ニューヨーク・アイランダーズにトレード放出された。それにも拘らず、セイバーズはプレイオフ第1ラウンドでフライヤーズを下したが(第2ラウンド進出を決めた試合では、8対1と完璧な勝利を収めた。)、第2ラウンドではペンギンズのダリウス・カスパライティス(Darius Kasparaitus)の再延長戦終盤の決勝ゴールにより敗れた。

このシーズンオフ(2001年夏)には、ハシェックとの長期に渡る契約交渉が不調に終わって、セイバーズはハシェックをデトロイト・レッドウィングスにトレードで放出した。こうしてハシェックとペカを失ったセイバーズは2002年にはプレイオフ進出を逸した。また2002年夏には、チームオーナーで Adelphia Communications のCEOでもあるジョン・ライガス (John Rigas) が、同社から10億ドル以上の資金を業務上横領した容疑で逮捕されるなどチームを取り巻く環境が急激に悪化していった。このためチームは短期間リーグによって管理運営された後、2003年1月には破産申請をし[1]、その後ニューヨーク州ロチェスター在住の富豪で、前ニューヨーク州知事選候補者であった Tom Golisano に買収された。

この後チームは混乱からの脱却を図りつつあり、ダニエル・ブリア(Daniel Briere)、デレク・ロイ(Derek Roy)、ロリー・フィッツパトリック(Rory Fitzpatrick)ら若手の登場・躍進も見られたが、2003-2004シーズンは惜しくもプレーオフ進出を逃している。なお、2004-2005シーズンはストライキによりNHLの試合開催が中止された。

2005-06シーズンはフォーワードクリス・ドル-リーダニエル・ブリエアジェイソン・ポミンビルなどの活躍で、52勝24敗6延長戦負けという好成績を出した。プレーオフでは、第1ラウンドはフィラデルフィア・フライヤーズを4勝2敗で下し、2ラウンドもオタワ・セネターズを4勝1敗で下した。しかし、コンフェレンス決勝までの間に怪我人が増え、第6戦ではジェイ・マクキーも怪我人になった。第7戦は4対2で負け、こうして2005-06シーズンは終わった。オフシーズンでセーバーズはフォーワード・J.P.デュモントディフェンス・スマクキーらを放しディフェンスにヤロスラブ・スポッチェクを加えた

2006-07シーズンセイバーズは新しいホームジャージ、アウェイジャージを採用し、チームロゴの変更を行った。 ロゴはそれまでのレッドアイバッファローから黄色・青を基調としたバッファローのロゴに変更され、チームカラーも変更された。 チームはプレイオフに進出しニューヨーク・アイランダーズニューヨーク・レンジャーズを破りカンファレンス決勝まで駒を進めるがオタワ・セネターズに破れ二年連続でカンファレンス決勝で姿を消しスタンレーカップファイナル進出を逃した。 キャプテンを勤めていた二人の選手ダニエル・ブリア、クリス・ドゥルーリーを失った(それぞれフライヤーズ、レンジャーズに移籍)。

脚注

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関連項目

外部リンク


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  1. 破産2チーム、オーナーいない 視聴率も振るわず NHL 朝日新聞2003年2月8日夕刊3ページ