ヨハン・ニースケンス

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テンプレート:サッカー選手 ヨハン・ニースケンス(Johan Jacobus Neeskens, 1951年9月15日 - )は、オランダヘームステーデ出身の元サッカー選手サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー

戦友であるヨハン・クライフとファーストネームが同じことから「もう1人のヨハン」と呼ばれた。オランダ人にしてはさほど長身ではないが、強靭な下半身からのシュート力は強烈なものがあった。PKのスペシャリストとしても名を馳せる。オランダ現地の発音は「ネースケンス」。

経歴

ヘームステーデ・ハーレムでデビュー後、1970年アヤックス・アムステルダムへ入団。入団当初は、右サイドバックとしてプレー。同年11月11日西ドイツ戦で代表デビューを飾り、1970-1971シーズンからのUEFAチャンピオンズカップ3連覇や1971-1972、1972-1973シーズンのリーグ連覇に貢献した。

1974年にはFCバルセロナへ移籍。攻守にわたる活躍と闘志溢れるプレーで活躍を見せた。また同年のFIFAワールドカップ・西ドイツ大会ではヨハン・クライフらを中心とする「トータル・フットボール」で準優勝に貢献。1978年FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会ではクライフが出場辞退した中で主軸として活躍し、代表通算49試合に出場。17得点を挙げた。

その後、当時サッカー不毛の地と言われていたアメリカへ渡り、ニューヨーク・コスモスではフランツ・ベッケンバウアーとともにプレーし、1980年1982年にはリーグ優勝を果たした。1シーズンオランダのFCフローニンゲンでプレーした後、再び渡米し、選手生活の終盤はスイスでプレーした。

1999年ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で72位に選出された。

引退後は指導者としての道を歩み、1999年にはオランダ代表のアシスタントコーチに就任。エールディヴィジNECナイメヘンの監督も務めたが2004年12月に成績不振により解任されている。

2005年12月にはオーストラリア代表のアシスタントコーチに就任。

2006年6月、古巣のバルセロナにアシスタントコーチとして復帰することが決まり、ドイツW杯終了後に就任した。契約期間は3年間。しかし、2008年6月、チームが2年連続でリーグタイトルを逃した事などにより、ライカールトとともに解任された。

2008年11月、オランダB代表監督に就任。 2009年7月、ガラタサライのアシスタントコーチに就任。

エピソード

  • アヤックスはかつてアマチュアの野球チームも所有していて、休日にはクライフやニースケンスら当時の主力選手も野球へ参加する事があった。クライフは野球はさっぱりだったようだが、ニースケンスは優秀な野手でプロからオファーがくる実力だった。彼の特徴的なプレーの一つであるスライディングタックルは野球から学んだという。

所属

選手

代表

  • 1970-1981 : テンプレート:Flagiconオランダ代表 49試合17得点
    • FIFAワールドカップ出場 2回(1974年西ドイツ大会=準優勝、1978年アルゼンチン大会=準優勝)
    • UEFA欧州選手権出場 2回(1976年ユーゴスラビア大会=3位、1980年イタリア大会)

指導者

出典

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外部リンク

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