ユーリ・ルシコフ
テンプレート:政治家 ユーリ・ミハイロヴィッチ・ルシコフ(Ю́рий Миха́йлович Лужко́в,Yurii Mikhailovich Luzhkov、1936年9月21日 - )は、ソビエト連邦及び、ロシアの政治家。モスクワ市長(第2代)。卓越した行政手腕の持ち主で、市長として高い評価を得ている。モスクワに外国から巨額の投資を呼び込み(ロシア全体の5割に相当)、モスクワを社会主義国家の首都から、資本主義経済下の大都市へと変化させた。
略歴
1936年9月21日、モスクワに大工の家庭に生まれる。1958年にモスクワ石油ガス化学工業大学を卒業。大学卒業後、勤務していたプラスチック研究所で有能さを買われて化学工業省の部長に抜擢される。1968年にソ連共産党に入党。1980年に生産合同「ネフチヒムアヴトマーチカ」総支配人となる。1977年にはモスクワ市代議員に選出されているが、以後、モスクワ市執行委員会第一副議長、モスクワ市共産党第一書記、ロシア共和国最高会議代議員を歴任する。1990年4月にモスクワ市執行委員会議長代行となり、ゴルバチョフ時代の急進改革派としても知られるモスクワ市長のガブリール・ポポフによってモスクワ市執行委員会議長に任命された。
1991年のソ連8月クーデター後、ソ連国民経済管理委員会(暫定政府)に副議長(副首相)として入り、12月までの短期間であったが、国内商業、対外経済関係、社会政策、農工コンプレックスなどを担当した。この時期は、同じく副議長に任命されたグリゴリー・ヤブリンスキーと親しく、ヤブリンスキーが主導したいくつかの計画に参画した。また、同年6月にポポフ市長によりモスクワ市政府首相に指名され、10月に赤の広場からのレーニン像撤去を要求した。ポポフ辞任後の1992年6月よりエリツィン大統領にモスクワ市長に任命される。1996年6月の市長選挙では90%を超える得票率で当選。
1998年11月に地方首長を集めて政治ブロック「祖国」を結成し、1999年8月にエフゲニー・プリマコフの「全ロシア」と合同し、「祖国・全ロシア」を結成した。「祖国・全ロシア」は、モスクワ市長として高い評価を得たルシコフと、ロシア金融危機を収束させたプリマコフが連合を組んだため、当初、国民から絶大な支持を受け、凋落し始めた共産党に代わって第一党になる、と予想された。しかし実際には、クレムリンの肝いりで政権与党「統一」が結成され、12月の下院国家会議選挙では、統一の追撃と、国営メディアを利用したクレムリンによる中傷により、第三党に甘んじた。下院選挙と同時に実施されたモスクワ市長選挙でルシコフは、71%の得票率で再選された。ルシコフは、選挙後、政権に近づき、「祖国・全ロシア」から「祖国」を離脱させ、「統一」と合流、新政治ブロック「統一ロシア」を結成し代表に就任した。かくて強力なプーチン政権与党を結成し、2003年の下院選挙で「統一ロシア」は第一党となった。同日実施のモスクワ市長選挙でルシコフは75%の得票率を獲得し三選された。
長期政権化が続く中でクレムリンとの対立が深まり、2010年9月28日にメドヴェージェフ大統領によって解任された[1]。
出典
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ガブリール・ポポフ
|style="width:40%; text-align:center"|25px モスクワ市長
第2代:1992 - 2010
|style="width:30%"|次代:
ウラジーミル・レシン
(臨時代理)
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