メルブ遺跡

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メルブペルシア語 : مرو Merv/Marw, Mary)とは、トルクメニスタンカラクム砂漠の中にある、中央アジア最大の遺跡。トルクメニスタンではマル(またはマルイ、マリイ)と呼ばれている。1999年、トルクメニスタン初の世界遺産に登録された。

概要

ファイル:Mervturkmenistan.jpg
メルヴに残る「エルク・カラ」の遺構

もとはホラーサーン地方の中心都市のひとつで、シルクロードオアシス都市として栄えた。人口は100万人に達したといわれる。

なお榎一雄南北朝時代職貢図に記載された「未国」をメルブと比定する説を提出している[1]。なおメルブには仏教が伝播しており(後述)、またの武帝・蕭衍は、仏教信徒としても高名で「皇帝菩薩」と呼ばれていたため、仏教を通じた交流も考えられる[2]

歴史

マルグ

テンプレート:Main 紀元前6世紀から、アケメネス朝ペルシャの支配下にある一オアシス都市として繁栄し始める。当時は、「テンプレート:仮リンク」(サトラップ)と呼ばれ、マケドニア王国期には「マルギアナ」と呼ばれた。「マルギアナ」の遺構は、円形のプランをもち日干レンガの城壁で囲まれた「エルク・カラ」として知られる。「エルク・カラ」は、12haに達する都市であった。

パルティア時代とギャウル・カラ

その後、セレウコス朝時代をへて、前2世紀~後3世紀のパルティア時代に、「エルク・カラ」を北辺に組み込んだおおむね一辺1.8~9kmの方形に近いプランの「ギャウル・カラ」(「グヤウル・カラ」)が築かれた。面積は、約3.5km²で、城壁に囲まれ、十字に交差する道路で街区が造られていた。

「ギャウル・カラ」の外側にも、楕円形に近い形に城壁がめぐっていて、内側の城壁から外側の城壁への距離は、北へは3km、東西、南方向へは、3.5kmであり、総面積は、60km²に及んだ。ギャウル・カラは、サーサーン朝の滅亡する7世紀まで機能していた。

仏教の伝播

メルブには、紀元後1世紀頃に仏教が入ってきたと考えられ、城壁の南東すみに、仏寺跡とみられる遺跡がある。他にも当時の仏塔や僧院が残されており、8.5cmの仏像の座像と土器に入った経文が発見されている[3]。経文は、白樺樹皮サンスクリット語で書かれていた。

イスラーム以降

7世紀に西方のアラビア半島からイスラームが勃興し、サーサーン朝を滅ぼすと、第3代正統カリフウスマーンの時代からアラブ軍によるホラーサーン遠征が本格化するようになった。

649年にバスラ総督に任命されたアブドゥッラー・イブン・アーミルは自らアラブ軍を率いてホラーサーン諸都市を征服し、ヘラートを征服した。のちにメルヴの住民はイブン・アーミルに投降し、メルヴはアラブの支配下になった。以降、この地は8世紀になるまでマーワラーアンナフルアフガニスタン遠征の拠点となる。この頃からメルヴはアラビア語マルウ・アッシャーヒジャーン(Marw al-Shāhijān)と呼ばれるようになった。

セルジューク朝時代

セルジューク朝1038年1194年)時代になると、「ギャウル・カラ」の西に接して概ね楕円形の「スルタン・カラ」が築かれた。

このころ、メルブが最大の栄華を誇ったとされ、数万冊の蔵書があったという図書館が8つあり、天文台も築かれた。『ルバイヤート』で知られる著名な詩人、数学者であったウマル・ハイヤームも、この時期のメルブの天文台主任として活躍した。

1097年、セルジューク朝の王子サンジャル(のちのスルタン・サンジャル(位1118~1157)がホラーサーン地方を支配するよう分邦されると、彼はメルヴに自らの宮廷を置いた。1118年スルターンに即位するとメルヴは彼の元でホラーサーン地方を含むセルジューク朝の東部全域の首都となった。

かつては青タイルで装飾されていたサンジャルの廟もこの「スルタン・カラ」のほぼ中央に建てられた。スルタン・サンジャル廟は、外壁5m、基礎6mという堅牢なもので、後のモンゴル軍の破壊や地震にも奇跡的に耐え抜き、当時の建築技術の高さをうかがわせる。

メルブの終焉(モンゴルによる壊滅)

12世紀末も、ホラズム・シャー朝支配下の重要な都市として繁栄を続けたが、1218年に、チンギス・ハーンの要求を伝えた特使を殺害したため、1221年に、チンギス・ハーンの末子トルイ率いるモンゴル騎馬団が復讐のために攻め込んで、100万人を数えたという住民を一人残らず皆殺しにした。メルブの町は廃墟と化し、二度と復興しなかった。

その他の遺跡

  • 大キズカラは、高さ20m近くあり、かつては2階建てで屋根もあったと考えられているが、現在は1階部分は砂に埋もれ、壁は一部崩壊している。小ギズカラとともに、「スルタン・カラ」の城壁の外、南西の地点に築かれている。

世界遺産登録

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

脚注

  1. 榎一雄「梁職貢図について」『東方学』第二十六輯、1963年、東方學會。榎一雄「滑国に関する梁職貢図の記事について」『東方学』第二十七輯、1964年、東方學會。榎一雄「梁職貢図の流伝について」(鎌田博士還暦記念会編『歴史学論叢』所収、1969年9月)榎一雄「職貢図巻」『歴史と旅』1985年(昭和60年)一月号。榎一雄「描かれた倭人の使節―北京博物館蔵「職貢図巻」―」『榎一雄著作集』第7巻「中国史」、汲古書院、1994年。
  2. 榎一雄前掲諸論文
  3. 1962年ソビエト連邦科学アカデミー調査団による。

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