マリ帝国
マリ帝国(まりていこく、1230年年代 - 1645年)は、現在のマリ共和国周辺の領域で栄えたマンディンカ族の国家。歴代の王は早くからイスラム教を受け入れていたとされる。首都はニジェール川最上流部のテンプレート:仮リンクという説がある。ユネスコ人類の口承及び無形遺産の傑作テンプレート:Enlinkになっているマンデン憲章テンプレート:Enlinkが憲法として定められていた。
歴史
帝国の創始者で、伝説的英雄スンジャータ・ケイタテンプレート:Enlinkは、マディンゴ族系のマリンケ族を統一し、1235年にはテンプレート:仮リンクのテンプレート:仮リンクとの戦いに勝利した(en:Battle of Kirina)。
その後、サハラ砂漠を越えて北アフリカと岩塩・布地・奴隷、そして金の交易を行い、14世紀には西は大西洋岸まで、東はトンブクトゥ・ガオまで、南はブレ・バンブクにある金鉱に達し最大の繁栄を極めた。14世紀には王のマンサ・ムーサ(マンサは「王の中の王」の意、在位:1312年 - 1337年)と、テンプレート:仮リンク(在位:1341年 - 1360年)のもとで帝国は最盛期を迎えた。当時マリを訪れたアラビア人の旅行家イブン・バットゥータは、「彼らの国はまったく安全である」ことに驚き、住民たちはもてなしが良く、正義感が強いことを称賛している。 なお、マンサ・ムーサは、1324年にムスリム(イスラム教徒)として数千人もの従者を引き連れてメッカへ巡礼し(皇帝マンサ・ムーサのメッカ巡礼)、その道中のあちこちで大量の金の贈り物をしたために、カイロの金の相場が下落したという逸話がある。王はマリに戻ると、イスラム教とイスラム文化を進んで住民に広めている。
しかし、14世紀の後半からは聡明でない王が続き、そのため従属していた国々が相次いで離反した。また同じ頃、南方のモシ族・北方のトゥアレグ族が攻めてきたために大損害を受け、帝国は衰退していった。その後もソンガイ帝国庇護のもと地方小国家として続いていたが、1645年に滅亡した。
制度
帝国の経済基盤は、ニジェール川流域の肥沃な土地から取れる粟・モロコシ・米と、周辺のサバンナでの牧畜を中心とした農牧国家だったとされる一方で、交易地を多く持っていたため交易への課税にも拠っていた。とはいえ、諸王の権力と富を最も増大させたのは南部の金鉱からとれる金交易によるものであった。
帝国というが、中央集権体制の国家ではなく、マリを中心とする緩やかな連合国家であったとされる。
宗教
イスラーム教を受容したが、祖先信仰などの土着信仰も残っていた。帝国内のイスラーム神学者はマグリブ出身のアラブ人やベルベル人が多く、領域内から独自に育った神学者は少なかった。
マリ帝国のマンサ(王)の一覧
まだ知られていない王も多くいて、現在発掘が進められている。
- Sundiata Keita (1240-1255)
- Wali Keita (1255-1270)
- Ouati Keita (1270-1274)
- Khalifa Keita (1274-1275)
- Abu Bakr (1275-1285)
- Sakura (1285-1300)
- Gao (1300-1305)
- Mohammed ibn Gao (1305-1310)
- Abubakari II (1310-1312)
- Kankan Musa I (1312-1337)
- Maghan (1337-1341)
- Suleyman (1341-1360)
- Kassa (1360)
- Mari Diata II (1360-1374)
- Musa II (1374-1387)
- Maghan II (1387-1389)
- Sandaki (1389-1390)
- Madhan III (Mahmud I) (1390-1400)
- Unknown Mansas (1400-1441)
- Musa III (1440年代)
- Ouali II (1460年代)
- Mahmud II (1481-1496)
- Mahmud III (1496-1559)
- Mahmud IV (1590年代-1600年代)
参考文献
- アンソニー・ブリアリー著、古賀浩訳 『古代アフリカ(古代遺跡シリーズ)』 ニュートンプレス、1997年。ISBN 4-315-51358-X。
- 世界史小辞典編纂委員会編 『世界史小辞典(改訂新版)』 山川出版社、2004年。ISBN 4-634-62110-X。
- イブン・バットゥータ 『大旅行記』全8巻 家島彦一訳、平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1996-2002年。
関連項目
- サハラ交易
- サリフ・ケイタ - マリ帝国の王家の末裔。
- ソンガイ帝国テンプレート:Asbox