フランツ・マルク
フランツ・マルク(Franz Marc, 1880年2月8日、ミュンヘン - 1916年3月4日、ヴェルダン)は、20世紀初期のドイツの画家。動物を愛し、動物とひとつになろうとした画家であった。画家としての活躍はわずか10年。動物によって心開かれ、自らの魂を動物たちに投影したマルクはその人生の最後、世界の再生を動物たちに託し、この世を走り去った。
来歴
貴族の流れを汲む名家であり、風景画家の息子として生まれた。父親は生まれたばかりのマルクを見たとき、その容姿が気に入らず、目まいを覚えたと言うほどの神経質な人物であった。マルクはそんな父親に厳しくデッサンの基礎を教え込まれた。絵を描くことが大好きだったマルクは、父が褒めてくれることはなかった。元々内向的だったマルクは益々自分の気持ちをいえない人間嫌いの少年になっていった。
1899年に19歳のマルクは、1年間の兵役で軍隊のキャンプに参加した。彼の人生を変える不思議な体験は馬術の訓練中に起きた。馬の背にまたがり、走り出したその時、マルクの心の中で何かが弾けた。何者にも束縛されない自由な世界。憎しみも偽りもない動物の純粋さ。マルクは動物が大好きになった。そして動物を描く画家になりたいと思った。兵役を終えると父の反対を押し切り、画家を志して1900年にミュンヘン美術院に入学。しかし、学校が教えるのは写実的な風景画。描きたい動物はただの添え物にすぎなかった。学校を辞め、ひとりでアトリエを構えたマルクは、夢だった動物の絵を描き始める。
しかし、彼が描いたのは仰向けになった雀の亡骸「死んだ雀」(1905)。空を自由に羽ばたく小鳥がモノトーンの暗い闇の中、地面に投げ出されている。描かれたのは命の終焉。何をやってもうまくいかない自らの境遇が、反映されているかのようであった。荷車につながれた馬「小さな馬の習作Ⅱ」(1905)。その姿はいまだ父親の呪縛から逃れられないマルク自身のようであった。
そんなとき1903年から1907年にかけてパリに滞在し、フィンセント・ファン・ゴッホの絵に接し、父親や美術学校で教わらなかった自由で生き生きとした表現を感じ取った。マルクの動物画は進化を始める。大胆なタッチによって生み出される動物たちの生命感。マルクの心は次第に解放されていく。初期の傑作「黄色い牛」(1911)。喜び飛び跳ねる牛は明るい黄色に彩られ、牛と言う動物の概念を変えた華やかさと躍動感に満ちている。なぜ、彼は牛を黄色で描いたのか ? 当時、マルクは色彩に意味を見出そうと独自の研究を重ねていた。時には光を七色に分解するプリズムで絵を覗くなど、色の与える効果に研究を続けていた。
友人にあてた手紙にこう綴っている。「青という色は男性的。厳しく精神的な色だ。黄色は女性を現し、優しく陽気で官能的である」。この年、マルクは幸せな結婚をしたばかりであった。黄色い牛は伴侶を得た喜びにあふれる感情を象徴していた。青い色彩で度々描いたのは馬であった。青は男性的なヒーローの象徴。それはこれから芸術家として生きていこうとする決意を現しているかのようであった。さらにマルクは動物に感情を託すだけでなく、動物そのものの目になろうとした。「風景の中の馬」(1905)では無限に続くかのような遥かな遠くの景色を見つめる馬の後姿。見渡す風景は、緑、赤、そして広がる黄色。明るく鮮やかな色に彩られている。まるで違う次元に迷い込んだような不思議な感覚にとらわれる。マルクは絵について「芸術家にとって、自然が動物の目にどのように映っているかという考えほど、神秘的なものがあるだろうか」と語っている。
1909年にワシリー・カンディンスキー率いる新ミュンヘン美術家協会の展覧会を観て感動し、同協会に参加。しかし、1911年に協会内部の対立によりカンディンスキーの作品が拒否されたことを契機としてカンディンスキーとともに脱会し、彼と共にドイツ表現主義のグループである青騎士の中心メンバーとなり、斬新な表現で現代美術に大きな影響を与える存在となった。そしてその後のヨーロッパの行く末を案じさせる傑作を生み出した。「動物の運命」(1913)では、それは激しい色彩と大胆な線で描かれた不可思議な光景であった。中央には首を伸ばして大きくのけぞり、雄たけびを上げる青い鹿。二頭の赤い猪が何かにおびえるように体を寄せ合っている。恐怖に駆られ、全速力で逃げる二頭の緑の馬。様々な色彩と入り乱れる動物たちの感情。マルクは絵の裏にこう記した「そして存在するものはすべて燃えるように苦悩している」と。
このとき世界は未曾有の危機に直面していた。それはやがてマルク自身が身を投じることになる第一次世界大戦勃発。純粋な動物の目で世界を見つめようとしたマルクは、逃れられない運命が近づいていることを感じ取っていた。マルクが戦いをモチーフにした作品とは、そこには赤と黒の炎と渦巻きの物体が描かれている「戦うフォルム」(1914)。ぶつかり合う二つの激しい感情。赤い物体の右側に描かれたくちばしのような形は元は鷲だったのではないかといわれている。一方の黒い物体は、もはや生き物の姿をとどめていない。現実世界の暴力に巻き込まれていったマルクの動物たちは魂の塊と化し、その形を失ってしまった。赤い鷲は黒い物体に対して、勝利を収めるかのように描かれている。しかし、マルクの思いはその先にあると専門家は語る。
宇都宮美術館の学芸員である石川潤は「戦うフォルムの中の赤い鷲は、戦いに勝利しつつ一旦滅びて、最終的には不死鳥のように再生していく存在であった。だから、完全に世界に絶望したとはいえない。それを経た先には純粋無垢な物が開けるはずであると信じて描いたのではないだろうか」と分析し、「戦うフォルム」には抗うことのできない運命に乗り越えようとするマルクの強い意志が込められていた。
第一次世界大戦に出征し、ヴェルダンの戦いにおいて36歳の若さで命を落とした。
評価
マルクの作品は、馬、牛、猿、鹿、ロバ、狐、虎などの動物や森を主たる対象とした、極めて色彩にあふれた作品である。しかもそれは現実の色彩からかけ離れていることも多い。マルク本人の死後のことであるが、青い馬を描いた作品などは、自分自身古典的な作風の絵を描いていたヒトラーから「青い馬などいるはずがない」として「退廃芸術」作品と決め付けられた、という逸話も残っている。
晩年には、カンディンスキーと同様に作品の抽象化が進み、1914年の作品「チロル (Tyrol)」や「戦う形・せめぎあう形 (Fighting Forms)」などは、具象を残しながらも、カンディンスキーと同系統の抽象絵画といっていいような作品に仕上がっている。
なお、日本においてはマルクの本格的ではなく、再評価が待たれる人物である。
代表作
- 『ダウハウエル・ムーアの家』(1902)
- 『羊のいるシュタッフェラルムⅡ』(1902)
- 『死んだ雀』(1905)
- 『小さな馬の習作Ⅱ」(1905)
- 『風景の中の馬」(1905)
- 『黄昏の中の鹿』(1909)
- 『赤い布の上の猫』(1909-10)
- 『黄色い牛』(1911)
- 『小さな青い馬』(1911)(シュトゥットガルト州立美術館)
- 『小さな黄色の馬』(1912)(シュトゥットガルト美術館)
- 『虎』(1912)(ミュンヘン、レンバッハハウス美術館)
- 『動物の運命』(1913)
- 『戦うフォルム』(1914)