フィルハーモニア管弦楽団

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テンプレート:Infobox Musicianテンプレート:Portal クラシック音楽 フィルハーモニア管弦楽団テンプレート:Lang-en、愛称"The Phil")は、イギリスオーケストラで、本拠地は1995年よりロンドンロイヤル・フェスティバル・ホールオットー・クレンペラーをはじめ、多くの指揮者との録音で知られる。

歴史

レッグの時代

1945年に、EMIの名プロデューサー・ウォルター・レッグによって創設された。レッグの主目的はEMIの製作するレコードのためのオーケストラを作ることにあった。大戦による召集などで、イギリスの他のオーケストラの活動がいまだ低調だったこともあり、優秀な演奏家の積極的な採用が成功した。例えば、1957年に交通事故で夭折するホルン奏者デニス・ブレインも創立当初から首席奏者を務めた(ただしロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団との兼任)。

初の公開演奏は1945年10月27日、ロンドンのキングズウェイ・ホールにて、トーマス・ビーチャムの指揮で挙行された。

レッグおよびEMIの長年にわたるコネクションを活かして、設立当初からヨーロッパ大陸(特に敗戦国ドイツイタリア)からの指揮者、独奏者を招いての公演・録音を盛んに行ったことが、フィルハーモニア管を他のオーケストラに対して特徴付けている点だった。1948年にはクレンペラーフルトヴェングラーカラヤンの3人を相次いで定期公演の指揮者としているし、リヒャルト・シュトラウス4つの最後の歌」の世界初演はフルトヴェングラーの指揮でフィルハーモニアによって行われた(1950年5月、作曲者の没後)。カラヤンはフィルハーモニアを率いてヨーロッパ大陸ツアーも成功させ(1952年5月)、それは創立10年に満たない楽団の地位向上に貢献した。イタリアからはトスカニーニグィード・カンテッリジュリーニがフィルハーモニアのためにタクトを揮っている。

フィルハーモニアとの良好な関係を構築したかに見えたカラヤンは、1955年ベルリン・フィルの首席指揮者に就任してしまい、その後期待されたカンテッリが1956年に航空事故で急死したことで、リーダー不在の危機が囁かれたが、レッグは大戦後ポジションに恵まれなかった観のあるオットー・クレンペラーをトップに据えることを決断、1959年にはクレンペラーは常任指揮者(後に終身)に就任し、多くの演奏、録音を残す。

ニュー・フィルハーモニア管時代

順風満帆に思われたフィルハーモニア管を1964年に激震が襲う。レッグは前年にEMIと袂を分かった後もフィルハーモニアの実質的なオーナーだったが、この年3月10日、資金不足を理由に突如フィルハーモニアの活動停止・解散を通告した。イギリス経済自体、後に「英国病」と揶揄される慢性的な衰退状況下にあり、フィルハーモニアに限らず、オーケストラの財政状況はどこも危うい状況にあった。当日はクレンペラー指揮によるレコード録音日であり、オーケストラ団員は全員一致で解散反対を決議、居合わせたクレンペラーも全面的な支持を約束する。こうして、フィルハーモニアはイギリスで初の自主運営組織によるニュー・フィルハーモニア管弦楽団(New Philharmonia Orchestra)として再出発することになった。新組織による初コンサートは同年10月27日、楽団の名誉総裁となったクレンペラーの指揮、曲目はベートーヴェン交響曲第9番である。

ニュー・フィルハーモニア管は意欲的な演奏活動を継続する。1965年にはストラヴィンスキー指揮による一連の自作自演プログラムを披露する。1970年には、大阪万博の一環としてジョン・バルビローリを指揮者として初来日の予定だったが、出発前夜の7月29日にバルビローリが急逝、急遽ジョン・プリッチャードエドワード・ダウンズを代役として来日公演を実現している。

しかし、クレンペラーの高齢化に伴い、楽団の求心力低下が懸念される状況になる。これを補佐する形で、クルト・ザンデルリングが首席客演指揮者に就任、1972年1月、87歳のクレンペラーは公式に引退を宣言(翌1973年7月6日死去)、楽団は1972年12月に初共演を行ったばかりのリッカルド・ムーティに常任指揮者就任を要請する(のち1979年からは音楽監督)。

1970年代以降

ムーティとの蜜月時代は1982年まで継続し、その間1977年からは再びフィルハーモニア管弦楽団(The Philharmonia Orchestra)の名称を回復することになる。その後、1984年から1994年ジュゼッペ・シノーポリ(音楽監督)、1994年からはクリストフ・フォン・ドホナーニ(当初は首席客演指揮者、1997年より首席指揮者)をトップとした。2008年-2009年のシーズンからは、首席指揮者にエサ=ペッカ・サロネンが就任している。結成以来イギリス人をトップに置いたことがない点も、イギリスのオーケストラとしては極めて異例である。また1994年から、日本人の岩淵麻弥がリーダー(コンサートマスター)を務めている。

なお、創設以来3管編成オーケストラであり、大曲を演奏する際は臨時奏者を補充している。カラヤンがアメリカ演奏旅行の際に臨時奏者と衝突したり(この際に正団員もカラヤンを支持しなかったことが尾を引き、離任の原因のひとつのなった)[1]、ムーティが離任メッセージでこの状態に不満を漏らすなど[2]、しばしば問題となってきた。

首席指揮者

ホール

ロンドンのオーケストラは「過密」と言ってよい状況(国際的レベルのオーケストラが5つ、それに対して大規模ホールは3つ)であり、リハーサルならびに定期演奏の場が保証されるという意味での本拠地(residency)の確保は、どのオーケストラにとっても難問である。フィルハーモニアは1993年パリシャトレ座を本拠地とし、1996年になってようやくロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールの本拠地化に成功し、現在は年間40公演を同ホールで行う(それ以前も同ホール開場以来45年にわたって定期演奏で利用していたが、あくまで客演での利用という建前だった)。

録音活動

創設以来の「録音の多いオーケストラ」の伝統は健在であり、1989年には「年間録音セッション数250回」という驚異的な記録を樹立している。


一般的なクラシック公演・録音以外にも、フィルハーモニアは例えば以下のような映画で音楽を担当している。


また、日本のドラマのテーマ曲の録音もしている。

脚注

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外部リンク

  • 中川右介『カラヤン帝国興亡史』幻冬舎新書
  • 「レコード芸術」1988年6月号、三浦淳史執筆のリポートより。同記事によるとこの時点での楽員数は73名。