ハンス・クリスチャン・アンデルセン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 作家

テンプレート:Wikisourcelang ハンス・クリスチャン・アンデルセンテンプレート:Lang-da-shortテンプレート:IPA-daハンス・クレステャン・アナスン[1]1805年4月2日 - 1875年8月4日)は、デンマークの代表的な童話作家詩人である。デンマークでは、Andersen が非常にありふれた姓であることから、フルネームを略したH. C. Andersen(デンマーク語読みで "ホー・セー・アナスン" [hɔse ˈɑnɐsn̩])と呼ばれる。

生涯

1805年4月2日フュン島の都市オーデンセで、22歳の病気の靴屋の父と数歳年上の母親の家で生まれる。彼の家は貧しく一つの部屋で全員が眠った。

アンデルセンは、両親の愛と母親の盲信によって育てられ、若い頃から想像力を発揮した。1816年に靴職人の父親[2]が亡くなると自分の進路を決めなければならなくなり、学校を中退する。15歳の時、彼はオペラ歌手になろうとし、1819年コペンハーゲンに行った。最初の3年間は困窮を極めた。彼が創作する劇作や歌なども認められなかった。オペラ歌手に成ることには失敗し挫折する、その後も挫折を繰り返し、デンマーク王立バレエ団のバレエ学校にも在籍していた。その後デンマーク王や政治家のヨナス・コリン(コペンハーゲン王立劇場の支配人)の助力で教育を受けさせてもらえる事になり、大学にまで行くことが出来た。しかし、在学中の5年間(1822-1828年)は悲惨なものだった。文学的才能について学長から嘲笑れたりしたので、コリンは個人授業を受けさせた。 1828年大学に入学し、文献学と哲学を学んだ。[3]

1829年には、『ホルメン運河からアマゲル島東端までの徒歩旅行──1828と1829における』[4]を自費で出版しドイツ語版も出るほどであった。

1833年4月から翌1834年8月にかけてヨーロッパを旅行した。パリに滞在したのち、スイスの山村にこもって「アグネーテと人魚」を書き上げ祖国に送って出版する。好評は得られなかったが詩人にとっては画期をなした。秋からイタリアに移り各地を訪問。ローマ滞在中に『即興詩人』を書き始める。またローマで活動していたデンマークの彫刻家トーヴァルセンと親交を結んだ。

デンマークに戻ってきた1835年に最初の小説『即興詩人』を出版する。この作品は、発表当時かなりの反響を呼び、ヨーロッパ各国で翻訳出版されてアンデルセンの出世作となった[5]が、現在は森鴎外訳を得た日本以外で顧みる者はほとんどいない。同年『童話集』を発表するが、当初はむしろ不評であった。

1843年1月からパリを訪問する。この頃には文名が揚がっていたため、バルザックヴィクトル・ユーゴーアレクサンドル・デュマ父子、ラマルティーヌダヴィッドハインリヒ・ハイネラシェル嬢(en:Rachel Félix)などの有名人多数と交友した。またこの年、ジェニー・リンドと再会し、彼女のデンマーク初公演を援助した。

その後も死去するまでの間に多くの童話を発表しつづけた。アンデルセンの童話作品はグリム兄弟の様な民俗説話からの影響は少なく、創作童話が多い。初期の作品では主人公が死ぬ結末を迎える物も少なくなく、若き日のアンデルセンが死ぬ以外に幸せになる術を持たない貧困層への嘆きと、それに対して無関心を装い続ける社会への嘆きを童話という媒体を通して訴え続けていた事が推察できる。しかし、この傾向は晩年になってようやくゆるめられていき、死以外にも幸せになる術がある事を作中に書き出していくようになっていく。また極度の心配性であったらしく、外出時は非常時に建物の窓からすぐに逃げ出せるように必ずロープを持ち歩いた。さらに、眠っている間に死んだと勘違いされて、埋葬されてしまった男の噂話を聞いて以来、眠るときは枕元に「死んでません」という書置きを残していた。70歳の時に、肝臓癌のため死去する。

大学を卒業しなかったアンデルセンは、旅行を自分の学校として、多くの旅行記を書いている。グリム兄弟バルザックディケンズヴィクトル・ユーゴーシュポーアケルビーニダヴィッドなど旅先で多くの作家や学者、芸術家と交友を深めた。生涯独身(未婚)であった。

アンデルセンが亡くなった時は、フレゼリク王太子や各国の大使、子供から年配者、浮浪者に至るまで葬式に並び大騒ぎになった。世界中で愛読されていたにもかかわらず、自身は常に失恋の連続だった。要因として、容姿の醜さ、若い頃より孤独な人生を送ったため人付き合いが下手だったこと、他にもラブレター代わりに自分の生い立ちから、童話作家としてデビューした事、初恋に敗れた悲しさなどを綿々と綴られた自伝を送るという変な癖があったことを指摘する人もいる。この著作は死後約50年経て発見された。それ等によると生涯に三度、こうした手紙類を記したことが分かっている。探検家デイヴィッド・リヴィングストンの娘との文通は有名である。

彼の肖像は、デンマークの旧10クローネ紙幣に描かれていた。首都コペンハーゲンには人魚姫の像とダンス博物館に王立バレエ団時代の資料が、彼の生まれ故郷オーデンセにはアンデルセンの子供時代の家(一般公開)とアンデルセン博物館がある。また、1956年には彼の功績を記念して国際児童図書評議会 (IBBY) によって「児童文学への永続的な寄与」に対する表彰として国際アンデルセン賞が創設され、隔年に授与が行われている。この賞は「児童文学のノーベル賞」とも呼ばれ、高い評価を得ている[6]

代表作品

邦訳作品集

脚注

  1. 発音例 - Forvo
  2. 父親はより高い将来を夢見て、1812年ナポレオン軍に入った。1814まで戦地に赴任し、1816年に亡くなった。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 171ページ)
  3. フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 172ページ
  4. Fodreise fra Holmens Canal til Østpynten af Amager i Aarene 1828 og 1829
  5. 『増補改訂 新潮世界文学辞典』p63 新潮社 1990年4月20日発行
  6. 『増補改訂 新潮世界文学辞典』p1511 新潮社 1990年4月20日発行

参考文献

アンデルセン自伝 大畑末吉訳 岩波文庫 ISBN 4-00-327414-8

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister