ニクソン・ショック
ニクソン・ショックとは、1971年にアメリカ合衆国のリチャード・ニクソン大統領が電撃的に発表した、既存の世界秩序を変革する2つの大きな方針転換を言う。当初は前者(7月15日のショック)を指し、後者はドル・ショックと言わていたが、後者もその後ニクソン・ショックと呼ばれることが多く、両者を併せて「2つのニクソン・ショック」と呼ばれることもある。
- 第1次ニクソン・ショック(ニクソン訪中宣言)は、1971年7月15日に発表されたニクソン大統領の中華人民共和国への訪問を予告する宣言から、翌1972年2月の実際の北京訪問にいたる外交政策をいう。→ニクソン大統領の中国訪問
- 第2次ニクソン・ショック(ドル・ショック)は、1971年8月15日に発表されたドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新経済政策をいう。→この頁で説明。
ニクソン・ショック(ドル・ショック)とは、1971年8月15日(日本時間1971年8月16日)にアメリカ合衆国政府が、それまでの固定比率(1オンス=35ドル)によるドル紙幣と金の兌換を一時停止[1]したことによる、世界経済の枠組みの大幅な変化を指す。リチャード・ニクソン大統領(当時)がこの政策転換を発表したことにより、ニクソンの名を冠する。
ショックと呼ぶのは、それまで金と交換できる唯一の通貨がドルであり、それ故にドルが基軸通貨としてIMF(国際通貨基金)を支えてきたのがブレトン・ウッズ体制であったが、ドルの金交換に応じられないほど米国の金保有量が減ったことにより、戦後の金とドルを中心とした通貨体制を維持することが困難になったこと、そしてこの兌換一時停止は諸外国にも事前に知らされておらず、突然の発表で極めて大きな驚きとともに、その後世界経済に大きな影響を与えたことによる。
概要
1971年8月15日夜(日本時間8月16日午前)、ニクソン大統領が、全米に向けたテレビ・ラジオの声明で新経済政策が発表された。
ニクソン大統領の声明の一部は以下の通り。
「……最近数週間、投機家たちはアメリカのドルに対する全面的な戦争を行ってきた。……そこで私はコナリー財務長官に通貨の安定のためと合衆国の最善の利益のためと判断される額と状態にある場合を除いて、ドルと金ないし他の準備金との交換性を一時的に停止するように指示した。……この行動の効果は言い換えればドルを安定させることにある。……IMFFや我々の貿易相手国との全面的な協力の下で、我々は緊急に求められている新しい国際通貨制度を構築するために必要な諸改革を求めるだろう……」[2]
主な要点は以下の3点である。
この新しい経済政策の金とドルの交換停止が、第二次世界大戦後の通貨の枠組みであったブレトン・ウッズ体制を解体することとなった。これはその当時有効なインフレ対策が打てず、ドルの信認が揺らぎドルの切り下げが避けられないことで、アメリカは深刻な通貨危機に直面していた[5]。そこでドルを防衛して少なくともアメリカ国益を損なわずに欧米各国と日本との多国間調整を一気に進めることを目的にしたものであった。そして4ヶ月後の1971年12月にドルの切り下げを容認して新しい固定相場でスミソニアン体制がスタートしたが、再びドル不安が再燃して各国とも固定相場制を維持することができず、わずか1年半後に変動相場制に各国とも移行していった。
ショックの要因と推移
第二次世界大戦が終りに近づいた1944年、米国ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズに連合国44か国の各国代表が集まって締結されたブレトン・ウッズ協定は、当時のアメリカ合衆国の経済力を中心として大戦後の世界経済の運営や国際通貨の管理を前提にしていた。大戦では本土が戦場とならず、各国への経済的支援を行いその軍事特需で富を蓄積して、戦後圧倒的な経済力を持ったアメリカが戦後の国際金融体制の中心に位置して、ドルだけが金と交換できる通貨として、他の国はドルとの交換比率を固定して、為替相場を固定することによって国際貿易を円滑にして経済活動を活発化させることが目的であった[6]。
この協定に基づく国際金融体制をブレトン・ウッズ体制といい、アメリカが圧倒的な生産力を持って世界各国へ輸出することで稼いだ貿易黒字を源泉として蓄えた大量の金準備に裏打ちされたものであった。そして各国はブレトン・ウッズ体制の下で安定した国際貿易の利益を享受していた[7]。戦前は通貨発行量が希少金属である金の保有量に制約される金本位制であったが、戦後は金・ドル体制とも金為替本位制とも呼ばれ、実質的には金とドルを同じ基軸として置く体制で成り立ち、1950年代は戦後の復興と科学技術の発達による経済規模の拡大、国際貿易や国際投資の拡大、社会保障政策の普及、冷戦による恒常的な軍事費増などで、財政支出の恒常的拡大が進んでいった[8]。
やがて西欧各国が次第に経済力を回復させて、また日本も高度経済成長でアメリカ以外の各国が経済発展していく中で、アメリカの手持ちのドルが海外へ流出するようになり、金と交換できるドルの絶対的価値が揺らぎ始めるのは60年代に入った頃であった。
戦後各国が定めた通貨の固定為替レートは、アメリカを除いて、第二次世界大戦の主要な交戦国が戦争で著しく疲弊していた当時の世界の経済状況を前提に定められたレートであり、大戦直後に世界の金保有額の三分の二がアメリカに集中して、ドルの金交換に基づく固定相場制を原則としたIMF体制で成り立っていた。そして戦災から復興した国々の経済が発展するにつれて、固定為替レートは次第に各国の経済力・競争力から乖離した状況になり、50年代に入ると各国の通貨のドルに対する為替レートが英ポンドや仏フランの切り下げ、西独マルクの切り上げなど、その時々に応じた通貨調整を行ってきた。しかし60年代後半になると潜在的要因としてドルの凋落が見え始めていたのである。
それまでの50年代にアメリカの海外への軍事支出、政府援助、政府借款が貿易収支の黒字分以上を占めて、1960年にはすでにドル危機と懸念される状況になった。アメリカ自体のドル交換に応じる金保有の割合は1948年の3.8倍から1960年には1.6倍に減少していた[9]。そこへ1965年のベトナム戦争介入による財政赤字とインフレで国際収支の赤字幅拡大によって1966年に初めて外国のドル準備がアメリカ財務省が保有する金保有額を上回る事態となった[10]。1968年頃からドル危機を潜在的要因としたマルクやフラン危機が顕在化して、1969年8月にフランは11.1%切り下げ、9月にマルクは9.3%切り上げられた。
1971年当時の先進各国の経済力・競争力と比較して、アメリカのドルは現実の経済力・競争力よりも高い為替レートになり、対ドルの為替レートは現実の経済力・競争力よりも低い為替レートになり、アメリカは国際貿易において赤字を出す不利な状況であった。さらに海外に流出したドルは貿易黒字国の対外準備として蓄積されたため、インフレを加速させた[11]。こうした国際流動性の拡充で米国がドル債務を負う形でドルを供給し、ベトナム戦争もあってドルと交換できる金の準備額がもはや不足していた[12]。
そして国際収支の赤字はそれ以前から続いていたが、1971年4月に貿易収支が初めて赤字となり、8月に入ってからフランス、8月13日にはイギリスがアメリカに対して30億ドルの金交換を要求した[13]。この時が金・ドル交換の停止を決定する引き金になった[14]。アメリカ政府は、金とドルがリンクした通貨体制(金・ドル本位制)を維持することがもはや困難になったと判断した。そのために起こる国内の事態急変を避けるため10%の輸入課徴金を掛け物価・賃金などを60日間凍結してその期間に各国との多角的調整をしてドルをアメリカにとって一番望ましい形に切り下げる[15]方向へ舵を切ったのである。
1971年8月15日にニクソン大統領の声明が発表された後、欧州各国はまだ外国為替市場が開いておらず、即閉鎖を決定し結局23日に再開するまで1週間は市場を閉じたままであったが、日本はこの声明が出たのが8月16日の午前10時で、すでに外国為替市場が開いており、ドル売りが殺到し、日銀がドル買いに走り、日本の外貨準備高が一気に100億ドルの大台を超えるなど混乱したが、その後も市場を閉鎖することがなかった。西欧各国とも対応がばらばらで、西独は2ヶ月前に変動相場制に移行していたし、仏は二重相場制、英は上限変動相場制、オランダなどベネルクス3国は域内は固定相場制で域外は変動相場制をとっており、各国間の調整はつかなかった[16]。
日本はその後10日余りは固定相場制を維持したが、あまりの為替市場の混乱に、1971年8月27日に外貨準備高が125億ドルに達して、この日の閣議で翌28日からやむなく変動相場制に移行することを決定した。1ドル360円の時代はこの日に終わった。ショックから12日後である。円の為替レートは前日までの360円から変動相場となった初日8月28日に342円となり、その後340円前後にとなり、年末までに320円前後を推移した[17]。
ニクソン・ショック後
その後、1971年12月に、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館で先進10か国蔵相会議が開かれて、ここでドルと金との固定交換レート引き下げ(1オンス35ドルから38ドルへ)[18]、米国の輸入課徴金10%の廃止、固定相場制を維持しつつドルと各国通貨との交換レートを国家間の多角的調整で決定された(スミソニアン協定)。このスミソニアン協定によって各国の対ドル為替レートが変更され、いったんは固定為替相場に戻った。[19]
その中で日本の円は、1ドル308円へ、ショック前(1971年8月)の360円から比べると16.88%切り上げとなった。すでにこの1971年12月時点での東京外国為替相場は320円前後であり、この切り上げ幅は各国通貨の中でも最大で、日本の代表使節団の予想をも大幅に上回るものであった。他の国では西独が13.5%、英仏が8.57%、オランダが11.57%、伊が7.48%のそれぞれドルに対する切り上げとなり、この時に通過調整をした国は50か国に及んだ[20]。西独がそれまでに何度かの切り上げを行って、なお且つショック前に変動相場制に移行しており、日本はずっと360円の固定相場を維持して切り上げをしてこなかったことが、日本だけ大幅な切り上げにつながったことは否めない。
これを受けて、ニクソンショック後の8月28日から始まった変動相場制が、同年12月19日より再び固定相場制に戻り、なおかつ前日よりも円高の308円への切り上げ(ドルから見れば切り下げ)が実施された。これがその後の日本経済を悩ます円高の時代の始まりであった。[21]
こうしてニクソン政権は8月15日に大統領が発表した政策の最大の目的であったドルの大幅な切り下げに成功したが、翌年1972年3月になると当時のEC6か国(西独・仏・伊及びベネルクス3国、この当時の英は未加盟)が域内の国内通貨は固定相場とするが域外のドルに対しては固定相場を放棄して変動相場制に移行する措置[22]をとり、しかもドル売りの動きは止まらず、アメリカの貿易赤字は拡大して、固定相場制度への信頼性が低下したことから、わずか1年余りの後の1973年2月、アメリカとその他の経済や貿易や投資の規模が大きい主要な先進国ほぼ全てが変動相場制へと移行した。
これは70年代に入ってから、すでにそれまでの固定相場制を維持できる経済力を失い、戦後から続いた国際金融体制で自国の国力を背景に統制することがもはや困難になったことを意味していた[23]。西欧各国と日本の台頭がアメリカ経済の衰退を招き、固定相場の安定が失われていった。日本も1973年2月に変動相場制に移行して以降、固定相場制に戻ることなく、初期はずっと円高に悩まされ、やがて円相場の上下に一喜一憂する時代に入った。
その後1976年1月、キングストン (ジャマイカ)で行われたIMF(国際通貨基金)暫定委員会において、変動相場制が正式に承認された(キングストン協定)。
エピソード
世界を揺るがす経済政策の変更[24]が突然発表された時に、まだこの時点では欧州も市場が開いておらず、為替相場の混乱を回避する方策を検討し閉鎖する余裕があった。しかし日本はすでに為替市場が開いている時間であったので日本市場だけが混乱する1日となった。後にニクソン大統領は、1971年の金とドル交換停止の理由ひとつは「日本人につけをまわすため」[25]であり、1969年の沖縄返還交渉で、佐藤首相が約束した「日米繊維問題での誠意ある行動」すなわち繊維製品の輸出を包括規制する約束を実行しなかったこと[26]で「日本の首相にわざと恥をかかせた」[27]とした発言をしている[28]。[29]
この1971年夏頃にニクソン大統領が日本に対して相当怒っていたことは当時の駐米日本大使館審議官の岡崎久彦も読売新聞紙上でも述べており[30]、もう一つのニクソンショック(電撃的な中国訪問発表)と同じように事前に全く日本側に連絡が無かった[31]。
前月の中国訪問の電撃発表ショックとあわせて、外交と経済の分野で、それまでには無かった新しい基軸でアメリカは動くことを内外に示したことになった。アメリカがソ連と中国との緊張緩和を図ろうとしたのは欧州やアジアの双方で封じ込め政策を遂行していくための費用をもはや負担しきれないことを認めたからである。ニクソンドクトリン、沖縄返還、戦略兵器削減、ヴエトナム戦争停止、輸入制限、新経済政策などは、いずれもアメリカが相対的衰退の時代に入り、アジアでの軍事的関与を削減するに際して「秩序ある移行」を確実にするためであった[32]。
脚注
外部リンク
関連項目
テンプレート:日本の経済史- ↑ この時点での声明は一時停止であったが結局恒久的に兌換停止になった。
- ↑ 「世界史史料 第11巻 20世紀の世界Ⅱ」 第5章 資本主義体制の再編成 342P 岩波書店
- ↑ この時点での声明は一時停止であったが結局恒久的に兌換停止になった。
- ↑ 週刊東洋経済1971年8月28日号 ドル体制の崩壊と日本経済
- ↑ 「世界史史料 第11巻 20世紀の世界Ⅱ」 343P
- ↑ 「現代アメリカ」第4章 アメリカの経済政策と経済学 61P 土居丈朗 著 2010年10月発行
- ↑ 「現代アメリカ」第4章 アメリカの経済政策と経済学 62P
- ↑ U.S. Government Budget Fyscal Year 2014
- ↑ 1949年のアメリカ政府の金保有額は245億ドルで、それが1970年には111億ドルになっていた。「そうだったのか アメリカ」179P 池上彰著 2005年10月発行 ホーム社
- ↑ 「世界の金融史~貨幣・信用・証券の系譜~」第11章 現代国際金融の諸相 417P 入江恭平 著 悠書館 発行
- ↑ 「世界の金融史~貨幣・信用・証券の系譜~」第11章 現代国際金融の諸相 418P
- ↑ 週刊東洋経済2012年4月6日号 激動ニッポン経済100年 59P ニクソンショック
- ↑ 「そうだったのか アメリカ」179P 池上彰著
- ↑ 「世界の金融史~貨幣・信用・証券の系譜~」第11章 現代国際金融の諸相 418P
- ↑ ニクソン声明の本質はドルが世界の通貨を支えるという責任を放棄するとともにドルの切り下げをはかるというものでした。「そうだったのか アメリカ」180P 池上彰著
- ↑ 「昭和後期10人の首相」77P 第3章 佐藤栄作 山岸一平著 2008年3月発行 日本経済新聞出版
- ↑ 週刊東洋経済2012年4月6日号 激動ニッポン経済100年 58P ニクソンショック
- ↑ これはドルの実質7.98%の切り下げを意味する。
- ↑ 週刊東洋経済2012年4月6日号 激動ニッポン経済100年 58P ニクソンショック
- ↑ 「昭和後期10人の首相」77P 第3章 佐藤栄作 山岸一平著
- ↑ 週刊東洋経済2012年4月6日号 激動ニッポン経済100年 58P ニクソンショック
- ↑ 「世界の金融史~貨幣・信用・証券の系譜~」第11章 現代国際金融の諸相 420P
- ↑ 「現代アメリカ」第4章 アメリカの経済政策と経済学 64P
- ↑ 一国の大統領の独断(アメリカ合衆国議会への提案も事前説明も無かった)といった意見もあるが、そもそも大統領には専権事項があり、当然独断で決断することが許される存在である。もう1つのニクソンショックもそうだが、独断だから出来たことである。しかもこの新経済政策は、10%の輸入課徴金を課すという自由経済の旗頭であるはずの超大国が保護主義そのもののタブーとされた政策をも加えており、あくまで一時的な緊急対策であって国内から反対は無かったし、ショック後のニューヨーク株式市場のダウ平均は前週の859ドルから、ニクソン演説の国内景気刺激策を好感して急騰して17日には900ドルに迫る動きであった。
- ↑ 「日米関係は何だったのか」368P マイケル・シャラー著 市川洋一訳 2004年発行 草思社 ただしこの言葉は他からの引用で、Joan Hoff , Nixon Reconsidored(newyork 1994)から引用している。
- ↑ これはニクソン大統領と佐藤首相との間で認識にズレがあったと言われている。この翌年1970年6月に日米繊維交渉が決裂して、71年1月に自主規制案を出したが拒否されて、このニクソンショック後の1971年10月にようやく妥結している。当時日本側には何故アメリカがこのような規制をかけてくるのかが分からなかった。原因は1968年の大統領選挙でニクソン陣営が繊維業者の多い南部の票を取り込むために約束した選挙公約であったことである。「昭和後期10人の首相」69~71P 第3章 佐藤栄作 山岸一平著
- ↑ 「日米関係は何だったのか」400P マイケル・シャラー著 市川洋一訳 2004年発行 草思社 ただしこの言葉もジャーナリスト、ヘンリー・ブランドンからの引用である。
- ↑ またそのニクソン発言を根拠に、「日本の終戦記念日を意図的に狙ったのではないか」とする見解も存在する(中村政則著『戦後史』(ISBN4-00-430955-7)p.140参照)。ただし声明は日本時間で8月16日午前10時で、またアメリカ人にとっての戦争が終わった日は8月15日ではなく8月14日である。
- ↑ 2014年7月24日に外務省が公開した外交文書の中に、1971年3月12日付けでニクソン大統領が佐藤首相に送った書簡が公開され、この中で、日本側が自主規制案を出したことに「本当に驚いた」として「双方が満足できる交渉は不可能と思われる」「こうした方法であなたに手紙を書くことを遺憾に思う」と述べて、日本政府の対応を批判した書簡であった。
- ↑ 読売新聞2014年6月17日付け第14面「時代の証言者」参照
- ↑ この日は定例閣議の日で、直前にロジャーズ国務長官から大統領の重大声明があるのでVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ 海外向け短波放送)を聞いてほしいとの連絡があった。「そうだったのか アメリカ」180P 池上彰著
- ↑ 「日米関係は何だったのか」368P マイケル・シャラー著 市川洋一訳 2004年発行 草思社