チンカイ

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チンカイČinqai/チンハイ, 1169年? - 1251年)は、初期モンゴル帝国に仕えた官僚。『集史』『世界征服者の歴史』などのペルシア語資料では چينكقاى بيتكچى Chīnkqāī Bītikchī、 چينقاى بيتكچى Chīnqāī Bītkchī と書かれる。漢語資料では鎮海と書かれ、田鎮海とも呼ばれた。

漢文の『元史』ではケレイト部族の出身、ペルシア語の『集史』ではウイグル部族の出身とされる。ウイグル文字を使ってモンゴル語を書くことができ、古くからチンギス・カンに仕えて侍従(チェルビ)に任じられた。チンギスがケレイトと戦ってモンゴル高原北方に逃れたとき、チンギスの側に付き従って共にバルジュナ湖の濁水を啜った19人の功臣の一人となり、ナイマンとの戦いでも戦功を上げた。

チンギスがモンゴル高原を統一すると、宮廷(オルド)に仕える書記官僚(ビチクチ)の筆頭に挙げられた。チンギスの在世中、チンカイは主に高原の留守を預かり、農民の捕虜を使って乾燥地帯に用水を引き、屯田を開いたり、征服した都市から連れてこられた職人を定住させたりして産業の発展に努めた。チンギスの中央アジア遠征のときはモンゴル高原西部に鎮海城(チンカイ・バルガスン)と呼ばれる屯田都市を開き、後方の兵站を担当した。チンギスの招請を受けた全真教の道士丘長春は、中央アジアへの旅行の途上に鎮海城を訪れてチンカイに面会し、ここから先の旅程をチンカイと共にしている。

チンギスの死後、後継者オゴデイのもとで整備された宮廷書記による文書行政機構(中国史料の中書省)の最高責任者(ウルグ・ビチクチ)となり、漢文史料には「中書右丞相」の肩書きで表れる(モンゴルでは左より右が上位であるため、右丞相が長官である)。南宋からの使者・彭大雅および徐霆による報告書『黒韃事略』によれば、書記たちにより中国語ペルシア語で記されたあらゆる文書は、最後にチンカイがウイグル文を書き入れなければ効力を発しなかったとされ、その役職は首都カラコルムを建造してモンゴル高原から全帝国を監督する大ハーンの文書行政の一切を取り仕切る重職であった。

1241年にオゴテイが死去すると、監国として政権を握ったオゴデイの后ドレゲネに仕えるムスリム(イスラム教徒)の財務官僚アブドゥッラフマーンと対立して罷免され、生命の危険を感じて河西地方を領するオゴデイの子コデンのもとに逃亡した。1246年にドレゲネの生んだオゴデイの長男グユクが即位し、続いてドレゲネが没すると、ドレゲネの側近が一掃されてチンカイが復権し、再び書記機構の長官(中書右丞相)に登用された。

1248年にグユクが急死すると、監国に就いたグユクの后テンプレート:仮リンクに協力してオゴデイ一門から第4代ハーンを出すため尽力するが、チンギスの長男ジョチの一門と四男トルイの一門の巻き返しが行われ、トゥルイの長男モンケが即位した。モンケは即位するとすぐにオゴデイの一門に謀反の疑いをかけ、オグルガイミシュと共にチンカイも処刑された。84歳の高齢であったという。