セルゲイ・ミロノフ

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テンプレート:政治家 セルゲイ・ミハイロヴィチ・ミロノフミローノフテンプレート:Lang-ru、ラテン文字転写の例:Sergei Mikhailovich Mironov1953年2月14日 - )は、ロシア政治家2001年から2011年までロシア連邦議会上院連邦会議議長。

経歴

1953年2月14日レニングラード州プーシキン市に生まれる。1980年プレハーノフ名称レニングラード鉱山大学地球物理学部卒業。1992年サンクトペテルブルク技術大学、1997年ロシア連邦大統領付属国家公務員アカデミー、1998年サンクトペテルブルク大学法学部をそれぞれ卒業している。

以上の大学で学ぶ一方で、1979年から、サンクトペテルブルクで鉱山技師を始めとして、さまざまな職場で勤務している。1980年代には地球物理学者として、数年間モンゴルの調査に加わった経歴も持っている。

ソ連崩壊後、建設会社の経営に乗り出す。実業家の傍ら、政治にも関心を持ち、1994年11月サンクトペテルブルクの企業家が集まって作った政治グループを母体として、市議会議員に立候補し当選する。1998年に市議会議員に再選を果たし、この間2000年には市議会第一副議長にも選出されている。ウラジーミル・プーチンと知り合い、密接な関係を築いたのは、アナトリー・サプチャーク市長のもとでプーチンが第一副市長を勤めていた時で、1996年のサンクトペテルブルク市長選挙でミローノフは、資金面でサプチャーク陣営を支援した。また、ミローノフとプーチンは、サプチャーク再選を目指し共同で投票日を繰り上げることを決定した。この時の市長選挙でサプチャークは、対立候補のウラジーミル・ヤコブレフに敗北するが、以後もミローノフは、サプチャーク、プーチンと関係を維持し、1998年サプチャークと関係のあるサンクトペテルブルクの建設会社「ヴァズラズジューニエ・ペテルブルク(ペテルブルクの再生の意)」の取締役に就任した。

2000年3月連邦大統領選挙では、サンクトペテルブルクにおけるプーチン陣営の選挙対策本部次長となった。2001年サンクトペテルブルク立法会議(市議会)議長に選出され、同時に市議会代表として、ロシア連邦議会上院連邦会議議員に選出された。2001年12月5日、上院議長に就任した。「ロシア生活党」党首を兼ねる。2003年1月サンクトペテルブルク市議会議員改選、及び上院議長に再選する。議長としては、プーチン政権を強く支援し、法案の順調な推進に尽力しているほか、大統領任期の延長やアメリカ軍グルジアに駐留することについて支持を表明するなどロシア政治における一定の方向性を形成することに影響力を示している。2004年3月大統領選挙にロシア生活党から立候補し落選するが、これは、大統領選挙が民主的な形式によって実施されたと内外に示すための意図的なものであったと言われる。

ロシア生活党はプーチン政権における大統領与党を形成していたが、党勢は振るわなかった。しかし、2006年10月統一地方選挙において予想外の躍進を果たした。同年10月28日ロシア生活党祖国ロシア年金党は合同し、新党公正ロシア」を結成した。ミローノフは公正ロシアの党首に選出され、新党は政策として、貧困の撲滅、汚職の追放、環境及び天然資源の保護を訴えた。また、与党統一ロシアがいわば高級官僚の労働組合であると批判し、新党はあくまで国民政党であることを強調した。

2009年平成21年)1月13日から16日までラオスで開催されたアジア太平洋議員フォーラムの帰途、来日。麻生太郎首相、江田五月参議院議長、河野洋平衆議院議長らと会談した。麻生首相との会談ではプーチン首相の訪日、北方領土問題などが議題に上った。16日には宮城県を訪問し、村井嘉浩知事、高橋長偉県議会議長と会談。ニジニ・ノヴゴロド州との交流など地域間交流について会談し、東北大学松島などを視察した後、離日した。

2011年5月18日サンクトペテルブルクの議会が、議員資格の停止を賛成多数で可決。これにより議長職も自動的に失い、議長を退任した[1]。翌2012年の大統領選挙に出馬したが得票率は3.85%にとどまり、5人中最下位で落選した。

脚注

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外部リンク

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テンプレート:ロシア上院議長
  1. テンプレート:Citenews