セボルガ公国

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テンプレート:基礎情報 行政区画 セボルガ公国(セボルガこうこく、テンプレート:Lang-it)は、イタリア北西部のセボルガにある自称独立国(ミクロネーション)。人口は約320人。

概要

音楽祭で有名なサンレーモから西北西へ約7km、モナコから東北東へ約24km、ジェノヴァから西南へ約118kmの距離に位置する。地中海に面したボルディゲーラから北東へ6kmほど入った山間、標高約517mのところに所在する。

中世に独自の公爵領(公国)であった由緒と、現在のイタリア共和国につながる国家への編入過程が明確ではないという主張から、1963年にイタリア共和国からの「独立」を宣言した。ただし、諸外国の承認は全く受けておらず、またイタリア共和国政府との間で問題は発生していない。イタリア共和国政府はリグーリア州インペリア県内の一自治体、セボルガと見なしており、また実態としてもそうである。

主要な産業は農業と観光業。「独立」の効果でセボルガは知られるようになり、イタリアの内外からの観光客を引き寄せている。

歴史

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「公爵の宮殿」

歴史上のセボルガ公国(セボルガ公爵領)

中世、現在のセボルガ一帯はヴェンティミーリア伯の領地であった(ヴェンティミーリアはボルディゲーラの約4km西に位置する)。954年レリノ(レランス島、現フランス領)にベネディクト会のレリノ修道院テンプレート:Enlinkが設立されると、ヴェンティミーリア伯は、セボルガ一帯をレリノ修道院に寄進した。これにより、セボルガ一帯は独自の領域となった[1]1079年、セボルガの領主であるレリノ修道院長テンプレート:Enlinkは、神聖ローマ帝国から公爵に叙せられた。これにより、セボルガは公爵領(公国)となる。

11世紀末から12世紀初頭にかけ、ベネディクト会の改革運動の中からシトー会が結成された。1118年、シトー会の指導者であったクレルヴォーのベルナルドゥステンプル騎士団の創設にも関わった人物として知られる)の活動によって、セボルガはシトー会の所有となった。以後約600年にわたって、セボルガはシトー会が治めるところとなった[1]

1729年1月20日、セボルガはサルデーニャ王であるサヴォア家ヴィットーリオ・アメデーオ2世によって購入された[1]1748年アーヘンの和約で、セボルガはジェノヴァ共和国に譲渡されたが[1]ナポレオン戦争後の1814年ウィーン会議によってジェノヴァ共和国はサルデーニャ王国に併合された[1]1861年、サルデーニャ王国を母体としてイタリア王国が建国される。

「独立」の経緯

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1996年に発行された「セボルガ公国」の硬貨。ジョルジョ1世の肖像が刻まれている。

1960年代初頭、セボルガの花卉生産者協同組合長ジョルジョ・カルボーネは、セボルガが歴史上公国として持っていた独立を回復するべきだと主張するようになり、このことは次第に住民に受け入れられるようになった。1963年、住民はジョルジョ・カルボーネを元首として選出し、「独立」が宣言され、ジョルジョ・カルボーネはセボルガ公ジョルジョ1世として「即位」した。地元では、その「途方もない大きさ」に敬意が払われ、Sua Tremenditàテンプレート:Lang-en-short)の愛称で呼ばれ(これは、君主や王族の高い地位に敬意を払う称号 Sua Altezzaテンプレート:Lang-en-short、「殿下」)のもじりである)、マスコミにもこの「敬称」が知られた。以来、ジョルジョ1世は2009年に死去するまで「セボルガ公」の地位に在った。1995年、「公国」の憲法が住民投票で採択された(賛成304、反対4)。

しかしこれはセボルガが公国としての地位を持っていることを意味しない。何人かはこの主張を一種の民間伝承だと考えているし、イタリア政府はセボルガをイタリア領とみなしている。

ジョルジョ1世の死去

2009年11月25日、ジョルジョ1世が73歳で死去。ジョルジョ1世は生涯独身であったため後継者はなく、同年12月1日よりアルベルト・ロマーノ(Alberto Romano)が摂政として君主の地位を代行した。

2010年4月、31歳の実業家(靴下会社の跡継ぎである)マルチェッロ・メネガット(Marcello Menegatto)が住民多数の支持を受けて「元首」に選出され、「マルチェッロ1世」となった。マルチェッロは、ジョルジョ1世の用いていた称号を引き継ぎ His Tremendousness Marcello I と名乗ったと報じられた[2][3]。ただし、「公国」の公式サイトでは、ジョルジョ1世ともども一般的な「殿下Sua Altezza Serenissima (S.A.S.) が用いられている[1]。「ジョルジョ2世」とも「ナイロンの王様」ともあだ名されているマルチェッロは、新しいホテルの建設や観光業の振興、雇用の創出を掲げている[2][3]

「公国」の地位

1729年1月20日、セボルガはサルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世によって購入されたが、セボルガ「独立」派はこの売却によってセボルガが独自の公爵領(公国)という地位を失っていないと主張する。1814年のサルデーニャ王国によるジェノヴァ共和国編入(ウィーン会議)、1861年イタリア王国建国(イタリア王国統一法)、1946年のイタリア共和国発足のいずれの時点においても、「セボルガ公爵領(セボルガ公国)」について特段の言及はされてはおらず、セボルガはイタリア共和国の一部ではなく依然「独立の領域」であるという論の根拠とされている。しかし、こうした主張がいかほど正しかったとしても、現在主張される独立は、いかなる公式の法律にもよっていないことは明記すべきであろう。

イタリア共和国政府とセボルガとの間には何等の緊張もない。イタリア共和国の法、医療サービス、通信、学校、その他すべての公共サービスは、イタリアの他の地域同様に供給されている。住民はイタリア共和国の行政サービスを受け、政治的権利を行使しており、地方税と(イタリア共和国の)国税を納入している。たとえば2001年のイタリア共和国上院選挙でのセボルガでの投票率は、84.21%であった。

テンプレート:要出典範囲

ギャラリー

脚注

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関連項目

  • ミニ独立国 - 自治体が「独立」を宣言して地域振興を図る、日本での類例。
  • フィレッティーノ - 2011年にイタリア共和国からの「独立」を宣言、「フィレッティーノ公国」を称したラツィオ州のコムーネ。

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:ミクロネーション
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 テンプレート:Cite web
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