セカイ系
セカイ系(セカイけい)とは、アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベルなど、日本のサブカルチャー諸分野における物語の類型の一つである。
定義が明確に為されないまま、主にインターネットを通じて広がったため、意味するところは諸説あるが社会学、現代文学論、サブカルチャー論などで様々に言及されている。
初出と初期の用法
セカイ系という言葉の初出は2002年10月下旬のことで、インターネットウェブサイト『ぷるにえブックマーク』で現れたとされている[1]。
この言葉は当初、その当時に散見されたサブカルチャー作品群を揶揄するものであった。「一人語りの激しい」「たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向」がその特徴とされており[2]、ことに「一人語りの激し」さは「エヴァっぽい」と表現されるなど[3]、セカイ系という言葉で括られた諸作品はアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』の強い影響下にあると考えられ、「ポストエヴァンゲリオン症候群」とも呼ばれていた[4][5]。
この「セカイ系」という言葉はインターネット上で2003年の前期に流行したとされているが[6]、後になって、この時期の言説を検証した前島賢は「『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、1990年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、おたく文化と親和性の高い要素やジャンルコードを作中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群」と総括している[7]。
東浩紀らの定義によるセカイ系
インターネット上で流通した「セカイ系」という言葉が活字出版物上に現れるようになったのは2004年の頃からだとされているが[8]、これ以降はインターネット外でも様々に論じられるようになる。その際、盛んに参照されたのは、サブカルチャーを論じる評論家として注目を集めていた東浩紀を中心に発刊された『波状言論 美少女ゲームの臨界点』編集部注によるもので、それによればセカイ系とは「「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」であり、代表作として新海誠のアニメ『ほしのこえ』、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』の3作があげられた[9]。
「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す[10]。セカイ系の図式に登場する「きみとぼく/社会領域/世界の危機」という3つの領域は、それぞれ「近景/中景/遠景」(別役実による)や「想像界/象徴界/現実界」(ジャック・ラカンによる)といった用語に対応させて言及されることもある[11]。
こうした「方法的に社会領域を消去した物語」はセカイ系諸作品のひとつの特徴とされ[12]、社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かない点をもってセカイ系の諸作品はしばしば批判も浴びた[13][14]。つまりこの時期にはセカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に「世界の果て」とつながってしまうような想像力」で成立している作品であるとされている[15]。
これらのセカイ系作品においては、世界の命運は主にヒロインの少女に担わされる。「戦闘を宿命化された美少女(戦闘美少女)と、彼女を見守ることしか出来ない無力な少年」というキャラクター配置もセカイ系に共通する構図とされている[16]。世界の危機と平行して、この傷ついた少女(=「きみ」)と無力な少年(=「ぼく」)との恋愛が学園ラブコメディとして描かれることも多く、このため「きみとぼく系」と呼ばれることもあった。さらに、ごく乱暴に「セカイ系とは『学園ラブコメ』と『巨大ロボットSF』の安易(ゆえに強力)な合体であって、つまり『アニメ=ゲーム』の二大人気ジャンルを組み合わせて思い切り純度を上げたようなものである」とも説明されることもあり[17]、こういった極小化された「きみとぼく」の純愛世界と誇大妄想的な「世界の危機」がシンクロして物語が進行する奇妙さがセカイ系の特徴とされていた。
これらの「セカイ系」の用法においても、『新世紀エヴァンゲリオン』の強い影響があったとする見方は持続している[18][19]が、その一方で「きみとぼく世界」+「世界の破滅」という構造はギャルゲー/アダルトゲーム特有の方法として現れたとする見方も提出されている[20]。
これらのセカイ系作品については前述したように社会領域を描いていない点を批判された他、コバルト文庫の看板作家だった久美沙織はセカイ系作品をとり上げた際に、少年が戦闘せずにそれを少女に代行させ、その少女から愛されて最後には少女を失うという筋書きは「自分本位の御都合主義で、卑怯な責任放棄」に過ぎないと述べ[21]、評論家の宇野常寛は「母性的承認に埋没することで自らの選択すらも自覚せずに思考停止」していると断定した[22]。
その他の用法
セカイ系という言葉は定義がはっきりしないままにインターネットから活字メディアに広がった結果、定義や用法にも様々なヴァリエーションがある。たとえば作家で評論家の笠井潔は前述の東浩紀らの定義を受けてセカイ系について論じていたが、セカイ系の特徴とした「方法的に社会領域を消去した物語」をセカイ系の定義として使用するようになり、セカイ系の範囲を広げている[23]。
また、ゲーム・ライター元長柾木は、この言葉を活字メディアに導入した最初期の人物であるが、セカイ系とは「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの根幹概念をもつ作品群のことであり、代表するのが、それぞれ清涼院流水の『JDCシリーズ』と上遠野浩平の『ブギーポップシリーズ』だとしている[24]。清涼院の小説『カーニバル・イヴ』(1997年)中の「社会派ではなく世界派として小説とは異なる大説を目指す」という言葉を元長は「セカイ系宣言」とみなし[25]、翌年に発表された上遠野の『ブギーポップは笑わない』と合わせてセカイ系の代表的存在とした。元長によれば、それまでのジュブナイル小説からライトノベルが枝分かれしたのは、清涼院や上遠野が示した「セカイ系的なもの」の有無であり[24]、これに従えばライトノベルはすべてセカイ系である。
前述したセカイ系の定義を広めた立場にある東浩紀にしても、その定義に当てはまらない作品群をセカイ系として論じており[26]、セカイ系の先駆として「世界をコントロール可能なものとして捉えるような」神林長平のSF作品や[27]村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』なども含めた議論を行っている[28]。もっとも東自身が認めるように「自意識と世界の果て、というモチーフ自体は、ある意味で文学の基本テーマそのもの」であり[29]、たとえばヨハネ黙示録を考えれば明らかなようにセカイ系に固有のものではない。
東は『新世紀エヴァンゲリオン』以降、「サブカルチャーのチープさをまといつつ、トラウマや癒しをテーマにした作品がぱっと増えた」とも指摘しており[30]、これを受けて前島も、この時期にサブカルチャー作品の中で文学的な自意識がテーマとして取り扱われた経緯を検証した上で、セカイ系と関連づけている[31]。
前島賢による総括
前島賢は『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』[32]において、これら「セカイ系」をめぐる1990年代後半から2000年代(ゼロ年代)にかけての言説を検証し、その総括を行った。彼によれば、物語を破綻させてまで自意識というテーマを展開させようとした『エヴァンゲリオン』(ことにその後半部)というアニメ作品の影響で「みずからのジャンルの虚構性、チープさを明らかにした上で、なおかつ真摯な物語を語ろうとした」[33]のが一連のセカイ系作品だったのではないかという。
また、セカイ系と名指しされたものはおおよそ、「ループものの作品」「セカイ系への自己言及的応答作品」の二つがあるとしており[34]、前者についてはゲームとの親和性、後者については従来のサブカルチャーで希薄だった批評的役割を担った作品であることを指摘している。そして、「セカイ系という運動、もしくは重力は、2010年代を迎えた現在、ほぼ消滅したといっていい」[35]が、「現代学園異能」[36]や「空気系」といった形式で継承されたとしている[37]。
参考文献
- 前島賢 『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』 ソフトバンク新書(2010年)
- 東浩紀編 『コンテンツの思想』青土社 (2007年)
- 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』講談社現代新書(2007年)
- 笠井潔『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』南雲堂(2008年)
- 限界小説研究会編『社会は存在しない――セカイ系文化論』南雲堂(2009年)
- 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』早川書房(2008年)