ジャガイモ飢饉
ジャガイモ飢饉(ジャガイモききん、テンプレート:Lang-en、アイルランド語:An Gorta Mór あるいは An Drochshaol)は、19世紀のアイルランドで主要食物のジャガイモが疫病により枯死したことで起こった食糧難、およびそれによってもたらされた一連の被害を指す。
1997年、イギリスのトニー・ブレア首相は、アイルランドで開催されていた追悼集会において、1万5千人の群衆を前に飢饉当時のイギリス政府の責任を認め、謝罪の手紙を読み上げた。これはイギリス政府の要人からの初めての謝罪であった[1]。
原因・背景
1801年のグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の成立以降、アイルランド島は全土がロンドンの連合王国政府および連合王国議会による直接的な統治下に置かれていたが、イングランドのように製造業が発展せず、国民の大半は農業に依存していた。さらにアイルランドの農民は兄弟全員が土地を分割相続できたため、農地の細分化が進んだ。また、小作農家たちは以前は主に麦を栽培していたが、地主に地代を納めなくてもよい自分らの小さな庭地で、生産性の非常に高いジャガイモの栽培を始めた。それによって、ジャガイモが貧農の唯一の食料となってゆき、飢饉直前には人口の3割がジャガイモに食料を依存する状態になっていた。しかし、1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。
この不作を飢饉に変えた要因は、その後の政策にあるといわれている。ヨーロッパの他の地域では在地の貴族や地主が救済活動を行ったが、アイルランドの貴族や地主はほとんどがブリテン島に在住しており、自らの地代収入を心配するあまりアイルランドの食料輸出禁止に反対するなどして、餓死者が出ているにもかかわらず食料がアイルランドから輸出されるという状態が続いた。連合王国政府も、緊急に救済食料を他から調達して飢え苦しんでいる人々に直接食料を配給することを、予算の関係などから躊躇しただけでなく、調達した食料を(安値で)売るなどの間接的救済策に重点を置いた。さらに、政府からの直接の救済措置の対象を土地を持たない者に制限したため、小作農が救済措置を受けるためにわずかな農地と家を二束三文で売り払う結果となり、これが食糧生産基盤に決定的な打撃を与え、飢餓を長引かせることになった。
最終的には、人口の少なくとも20%が餓死および病死、10%から20%が国外へ脱出した。また、これにより婚姻や出産が激減し、最終的にはアイルランド島の総人口が最盛期の半分にまで落ち込んだ。さらにアイルランド語話者の激減を始め、民族文化も壊滅的な打撃を受けた。アイルランドにおいては歴史を飢餓前と飢餓後に分けるほど決定的な影響を与えたため、"Great Famine"(大飢饉)と呼ばれている。
発端
このジャガイモ飢饉の発端とされるジャガイモ疫病は、植物の伝染病の一種であるが、このような伝染病が蔓延するためには、感染源、宿主、環境の3つの要素が揃うことが必要である。ジャガイモが当初ヨーロッパに持ち込まれた時には、この中の感染源となる病原菌そのものがメキシコの特定の地域に限定されていて、ヨーロッパには未だ伝来していなかったものと推定されている。
その後、何らかの理由によりジャガイモ疫病の菌が北アメリカからヨーロッパに持ち込まれて急速に蔓延して、ジャガイモ作物に壊滅的な被害を与えることになった。当時はまだ、このような微生物が病気を引き起こすという考え方そのものが一般的に受け入れられていない時代であり、Phytophthora infestansがその原因となる菌であることが明らかにされたのは、さらに下って1867年、アントン・ド・バリーの功績による。当時のヨーロッパでは、疫病の存在自体が知られておらず、これがヨーロッパにおける最初の蔓延であった。
ジャガイモは通常、前年の塊茎を植えるという無性生殖による栽培法を用いるが、当時のヨーロッパでは収量の多い品種に偏って栽培されており、遺伝的多様性がほとんどなかった。そのため、菌の感染に耐え得るジャガイモがなく、菌の感染がそれまでにないほど広がった。ジャガイモが主食作物であった原産地のアンデス地方では、ひとつの畑にいくつもの品種を混ぜて栽培する習慣が伝統的に存在し、これが特定の病原菌(レース)の蔓延による飢饉を防いでいた。また現代の大規模農業でも収量の多い品種に偏って栽培されているが、種芋の段階で防疫対策が取られている。
状況・対応
植民地政策
イングランドへの食料輸出
記録によれば、飢饉の最もひどい時期においても食料はアイルランドから輸出されていた。アイルランドで1782年から1783年にかけて飢饉が起きた際は、港は閉鎖され、アイルランド人のためにアイルランド産の食料は確保された。結果、すぐに食料価格は下落し、商人は輸出禁止に対して反対運動を行ったが、1780年代の政府はその反対を覆した。しかし、1840年代には食料の輸出禁止は行われなかった。
アイルランドの飢饉についての権威であるセシル・ウッドハム=スミス(Cecil Woodham-Smith)の著書 "The Great Hunger; Ireland 1845-1849" によれば テンプレート:Quotation アイルランドは飢饉の続いた5年間のほとんどを通して、食料の純輸出国であった。
リヴァプール大学のフェローであり、飢饉に関する2つの文献、"Irish Famine: This Great Calamity" および "A Death-Dealing Famine"の著者であるクリスティーン・キニアリー(Christine Kinealy)によれば、子牛、家畜類(豚を除く)、ベーコン、ハムのアイルランドの輸出量は飢饉の間に増加していた。飢饉が起きた地域のアイルランドの港からは、護衛に守られながら食料が船で輸出されていた。貧困層は食料を買う金もなく、政府は食料輸出禁止も行わなかった。
アイルランドの気象学者のオースティン・バーク(Austin Bourke)は著書 "The use of the potato crop in pre-famine Ireland" の中で、ウッドハム=スミスのいくつかの計算に異議を唱え、1846年12月の輸入量はほぼ2倍になっていると書いている。彼によれば テンプレート:Quotation
結果
犠牲者
レンスター | 15.3 |
---|---|
マンスター | 22.5 |
アルスター | 15.7 |
コノート | 28.8 |
アイルランド全体 | 20 |
この飢饉の間にどのくらいの死者が出たかは不明である。しかし、ヨーロッパを広範囲に襲ったコレラやチフスよりも多くの死者が出たとも言われている。当時国勢調査はまだ始められておらず、各地のカトリック教会に残された記録も不完全である。アイルランド国教会の記録の多くは(アイルランド国教会へのカトリック地方教会の十分の一税徴収の記録を含む)、1922年のアイルランド内戦の際にフォー・コーツ放火により焼失した。
一つの可能な見積もりは、1850年代の最終的な人口との比較である。もし飢饉が発生しなければ、1851年にはアイルランドの人口は800万から900万人になっていたはずだと考えられている。1841年に行われた調査では、人口は800万人をわずかに超えていた。
しかし飢饉の発生した直後、1851年に行われた調査では、アイルランドの人口は6,552,385人であった。10年でほぼ150万人が死亡、あるいは国外脱出したと考えられる。現代の歴史家と統計学者は、病気と飢餓の影響で80万人から100万人が亡くなったと考えている。加えて、計200万人以上がアイルランド島外に移住・移民したと考えられている。
アイルランドは19世紀の人口に比べて20世紀の人口が減少している、西欧では唯一の国である。近年は経済成長などもあり増加傾向にあるが、2007年時点でアイルランド共和国と北アイルランドを合わせた全島の人口はいまだに約600万人と、大飢饉以前の数字には及んでいない。
移民
ジャガイモを主食としていた被支配層のアイルランド人の間からは、100万人以上ともいわれる多数の餓死者を出した。さらに、連合王国内のグレートブリテン島への移住、ゴールドラッシュが発生していたアメリカ合衆国、連合王国の植民地カナダ、オーストラリアなどへの移民は、合計200万人以上にのぼったとされる。
影響
- 飢饉の際の連合王国政府の無策はアイルランドのイングランドへの不信感を増幅させ、宗教政策ともあいまって独立運動のきっかけとなった。
- 連合王国政府の行動が意図的な飢餓輸出かそうではなかったかについては、いまだに歴史的評価が定まっていない。
- 犠牲者の多くが被支配層のアイルランド人で、彼らは主にアイルランド語話者であったが、その人口減に加え、残ったアイルランド人もその後の政策や生活上の便宜から英語を話すようになったため、アイルランド語話者の比率が回復不可能なほど激減して英語の優位が確立する結果となった。
- アメリカ合衆国に渡ったアイルランド人移民はアメリカ社会で大きなグループを形成し、経済界や特に政治の世界で大きな影響力を持つようになった。この時代のアメリカへの移民の中には、ケネディ家の先祖も含まれていた。
脚注
関連項目
- チャクトー
- JAZZYな妖精たち(飢饉の影響で移民してきたアイリッシュ・アメリカンが主人公)
- ギッフェン財
- ホロドモール
テンプレート:Asbox テンプレート:Western-europe-stub テンプレート:Agri-stub
テンプレート:Link GA
- ↑ Blair issues apology for Irish Potato Famine The Independent 1997年7月2日
- ↑ Joe Lee, The Modernisation of Irish Society (Gill History of Ireland Series No.10) p.2