ジェノアCFC
ジェノア・クリケット・アンド・フットボール・クラブ(Genoa Cricket and Football Club 1893 s.p.a)は、イタリア・ジェノヴァを本拠地とするサッカークラブチーム。
クラブ名の「ジェノア」とはジェノヴァの英語名である。1897年、イギリスの船会社に医師として赴任した英国人のジェームズ・リチャードソン・スペンスリーがサッカー部門を創設し、自らも選手としてプレー。セリエAの前身となるイタリアサッカー選手権の初期には7年間に3連覇を2度果たした古豪である。日本人初のセリエAプレイヤー三浦知良も所属した。同じくジェノヴァを本拠地とするUCサンプドリアとはライバル関係にあり、デルビー・デッラ・ランテルナ(灯台ダービー)と呼ばれるダービーマッチは白熱する。
セリエA優勝回数ではユヴェントスFC、インテル、ACミランに次ぐが、現在ではなかなかセリエAに定着できずに入れ替えの憂き目にあっている。
目次
歴史
創設
クラブはジェノア・クリケット・アンド・アスレティック・クラブとして1893年9月7日[1]に創設された。最初期は陸上競技とクリケットのみの活動だった。クラブが在外イングランド人を代表して創設されたので、当初はイングランド代表チームと同じ白色のシャツを使用し[1]、イタリア人の加入は認めていなかった[1]。ジェノアの活動は都市北西部のピアッツァ・ダルミにあるカンパッソ地域で行っていた。
クラブのサッカー部門はジェイムズ・リチャードソン・スペンスリーによって1897年4月10日[2]に公式に開設された[3]。これはイタリアサッカーにおいて最古の部類であり、他にはトリノに二つのクラブが存在するだけだった[4]。クラブのサッカー部門開設にあわせて、イタリア人の入会も許されるようになり、ポンテ・カッレガには新グラウンドが建設された。最初のフレンドリーマッチはインテルナツィオナーレ・トリノとFBCトリネーゼの混合チームとの間でホームで開催され、ジェノアが1-0で敗れた[1]。その後行われたフレンドリーマッチにおいて、ジェノアはアウェーでUPSアレッサンドリアを2-0で下して最初の勝利を記録した。フレンドリーはまたイギリス戦艦リヴェンジの乗員をはじめとした、色々なイギリス人海兵たちとの間でも行われた[1]。
選手権を席巻(1898年-1900年代)
イタリアのサッカーはイタリアサッカー連盟の発足とイタリアサッカー選手権の設立によってレベルが向上した[2]。1898年にジェノアはトリノのヴェロードロモ・ウンベルト・Iで開催された最初のイタリア選手権に参加した[2]。彼らは5月8日の初公式戦でジンナスティカ・トリノを2-1で降し、その後、同日内にあった決勝戦でインテルナツィオナーレ・トリノを延長戦の末3-1で破り、最初の選手権に優勝した[5]。
ジェノアは翌シーズンにも優勝したが、このときは既にクラブ名からアスレティックを削って、ジェノア・クリケット・アンド・フットボール・クラブ (Genoa Cricket & Football Club) に変更していた。変更はシャツの色にも及び、青と白が交互のストライプに改められた。ジェノアは1899年4月16日に行われた、このワンデー・トーナメントの決勝で、再び3-1のスコアでインテルナツィオナーレ・トリノを破って優勝した。3連覇を果たした1900年には、地元のライバル、サンピエルダレネーゼに7-0で勝った試合があったが、これはリーグの最多得点差記録として1910年までどのチームにも破られなかった。決勝ではFBCトリネーゼを3-1で退けた[5]。
クラブのキットは1901年にまた変更があり、このときにジェノアは有名な赤と紺が半々になったものを採用し、ロッソブル (rossoblu) と呼ばれるようになった。1901シーズンはミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブに次ぐ準優勝だったが、1902シーズンはチャンピオンの座に戻り、4度目のタイトルを手にした。1903年以降、ジェノアの王位に対してユヴェントスが有力候補として浮かび上がってきた。ジェノアは1903年から全国決勝において2年連続でユヴェントスを降した[5] 。
フランスを訪れ、1903年4月27日にFVCニースと対戦したジェノアは国際試合を行うイタリアで最初のサッカーチームとなった。試合結果は3-0でジェノアが勝利した。1904年はイタリア選手権に優勝したのみならず、最初のリーグシーズンが実施されたIIカテゴリア(トップレベルの下に位置するセリエBの原型)の初代優勝チームにもなった。準優勝に終わった1905年以降は、イタリア選手権におけるかつての地位を失い、タイトルはユヴェントス、ミラン、プロ・ヴェルチェッリといったクラブが獲得した。[5]
外国人選手の起用を禁じるという体操連盟の主張にFIGCが合意した1908年からジェノアは凋落した。ジェノアにはその誕生以来、常にイングランド人たちの強い存在があった。ミラン、トリノ、フィレンツェなどの有力クラブは同意しようとせず、彼らはこの年の公式なFIGC大会から脱退した。連盟側は翌年に決定を取り消し、そしてジェノアはルイジ・フェッラーリス[6]やスイスから来た数人の選手によって建て直された。チーム再建にあわせてマラッシ地区に新たなグラウンドも建設された。スタジアムは当時のイギリスのそれに匹敵する25,000人の収容能力を持ち、1911年1月22日に公式に開場した。
ガーバット監督の下での復活(1910年代-1920年代)
イタリア代表チームの発足にあたってジェノアは重要部を担った。レンゾ・デ・ヴェッキ(何度かアッズーリのキャプテンを務める)、フェドアルド・マリアーニ、エンリコ・サルディが招集を受けた[7]。イングランド人ウィリアム・ガーバットはクラブ復活のためのヘッドコーチとして招かれた。イタリアにおける初めてのプロ監督だったガーバットは強烈なカリスマ性により尊敬を集め、しきりにパイプ煙草を吹かしていた[1]。彼は選手達から「ミステル (Mister)」と呼ばれたが、イタリアサッカー界において、この単語はやがてどの監督についても用いられるようになった[1][8]。
1914-15シーズン、ジェノアは北部地域の決勝ラウンドに勝ち、北部イタリアのトップクラブという地位を取り戻した[5]。しかし第一次世界大戦勃発により南部イタリアの決勝大会は開催されず、従って全国決勝は行われなかった。戦争終結後の1919年になってから、ジェノアはようやくこの11シーズンぶりのタイトルを贈られた[9]。 戦争では兵役に就いていたルイジ・フェッラーリス、アドルフォ・ニェッコ、カルロ・マラッシ、アルベルト・スッソーネ、クラウディオ・カザノヴァの5選手が死亡し、ジェノアは多大な犠牲を被った。サッカー部門創設者のジェイムズ・リチャードソン・スペンスリーはドイツで戦死した[9]。
戦終直後でもジェノアは依然として北部地域の強豪だった[9]。ガーバットは1922-23シーズンもジェノアを成功に導き、決勝では2試合合計6-1でラツィオを破った[5]。翌シーズン、ジェノアは北部決勝においてボローニャに勝ったが、ボローニャでの2ndレグ試合中に観客による暴動が起きたため試合は取り消され、FIGCはジェノアに2-0の勝利を与えたため、議論を引き起こす[9]。このシーズンの全国決勝ではジェノアはサヴォイアに2試合合計4-1で勝った。これがジェノアにとって9回目の、そして現時点では最後のイタリアチャンピオンシップである[10]。この2回の選手権獲得チームにはジョヴァンニ・デ・プラ、オッターヴィオ・バルビエリ、ルイジ・ブルランド、レンゾ・デ・ヴェッキがいた[1]。その後の1920年代は選手権には優勝できなかった。トリノに次ぐ2位となった1927-28シーズンが最も高い順位である。
ジェノヴァ1893時代(1920年代-1940年代)
ジェノアはその強くイギリス的な名前のせいで、ファシスト政権下の1928年にジェノヴァ1893チルコロ・デル・カルチョ ( Genova 1893 Circolo del Calcio) に改名を強制された[11]。クラブはヨーロピアンカップの前駆ともされるミトローパ・カップに1929年に参加し、準々決勝でSKラピード・ウィーンに敗れた。1929-30シーズンは、アンブロジアーナ(インテル)に次ぐ2位でシーズンで終えた。これが現在に到るまでジェノアにとってトップレベルの選手権での最後の準優勝になっている[5]。
1930年代前半のジェノヴァのリーグ順位は激しい浮き沈みを見せた。1933-34シーズンにジェノヴァはセリエB(イタリアサッカーの2部)へ初めての降格を経験した。クラブにとっては幸運なことに、ヴィットリオ・ファロッパの指導の下で立ち直り、ノヴァーラを上回ってグループ首位で昇格を果たした。1936年、野心的なフアン・クリオーロがクラブの会長職を引き継いだ。1936-37シーズンはリーグで6位となり、コッパ・イタリアにおいては決勝でASローマをマリオ・トルティのゴールによって1-0で降して初優勝した[12]。
翌1937-38シーズンのセリエAでジェノヴァは3位となった。このシーズンはとりわけ接戦で、優勝したアンブロジアーナとの勝ち点差はわずか3だった。1938年のFIFAワールドカップに優勝したイタリア代表には、ジェノヴァの選手からはセルジオ・ベルトーニ、マリオ・ジェンタ、マリオ・ペラッツォーロが名を連ねた[13]クラブは高いレベルでこの10年期を終え、イタリアリーグのトップレベルにおける五指の一つという地位を保った。[5]。
第二次世界大戦はイタリアのサッカー界にあまねく劇的な影響を及ぼしたが、しかしジェノヴァは他のクラブと同じように復活できなかった。1945年にクラブはイタリア選手権のごく初期に用いていたジェノア・クリケット・アンド・フットボール・クラブ (Genoa Cricket and Foot-Ball Club) という名前に戻した[14]。戦争が終わった翌年からは、オッターヴィオ・バルビエリやウィリアム・ガーバットといったかつてクラブを支えた人々が代わる代わる監督を務め、依然としてクラブはファンから人気があった[15]。ジェノアにはまたサンプドリアという形での新たなライバルが生まれた。彼らは1946年にほかのふたつのクラブの合併によって創設され、スタディオ・ルイジ・フェッラーリスをジェノアと共同使用した。
戦後(1940年代-1960年代)
セリエA上位に位置していたジェノアの力は第二次世界大戦後に明らかに衰え、1940年代後半は常に中位でシーズンを終えた。1948-49シーズンのジェノアには、インテルに4-1、有名なグランデ・トリノに3-0、パドヴァに7-1という3つの重要な勝利があった[16]。1950年代は悲惨な始まりだった。1949年にボカ・ジュニアーズから獲得したアルゼンチン人マリオ・ボジェはわずか1シーズンでクラブを去り、1950-51シーズンのジェノアはセリエAで最下位となり降格した。しかし2シーズン後にセリエBに優勝して、復帰を果たした[17]。この時期の有名選手にはノルウェー人ラグナー・ニコライ・ラルセンがおり、1950年代の残りは一貫してリーグ順位表の中央でシーズンを終えた[17] 。
1959-60シーズンに降格を喫し、1961-62シーズンにセリエAに再昇格したが[17]、それでも1960年代前半のジェノアにはカップ戦におけるかなりの成功があった。1962年にコッパ・デッレ・アルピに優勝した。決勝戦ではフランスのクラブ、グルノーブルをナッタのゴールにより1-0で破った[18]。ジェノアはその2年後の大会にも優勝した。そのときの決勝はスイス・ベルンのヴァンクドルフシュタディオンで開催され、ジャンパオロ・ピアチェリの2ゴールによってカターニアを2-0で破った[19]。
しかし祝賀は長くは続かず、最後のカップ成功があった1963-64シーズンのリーグ戦では16位となり、再びセリエBに降格した。このセリエB降格は過去の降格時よりはるかに長い在籍になり、クラブは落ち着きなく毎シーズンごとに監督を挿げ替えた[15]。さらに1970年には初めてのセリエC降格すら経験した。クラブは財政的に苦境に陥り、所有権が何度か移った[20]。
悲喜交交(1970年代-1980年代)
1970年代を通して、ジェノアは大半を2部で過ごした。アルトゥーロ・シルヴェストリの監督下で1973-74シーズンにセリエA復帰を果たしたが、1シーズンで降格した。ジェノアがまたセリエAに復帰するのはその2シーズン後、今度はロベルト・ロザート、ブルーノ・コンティ、若きロベルト・プルッツォを擁していた。2シーズンのあいだセリエAにとどまり、1977-78シーズンに降格した。この降格はジェノアとの1ゴールの得失点差でフィオレンティーナの残留が決まるという無情なものだった。両チームは最終節で直接対決があり、0-0で引き分けていた[21]。
降格によって、迅速な復帰のためには欠かせないトッププレイヤーたちを失った。例えばロベルト・プルッツォはローマに移籍し、大きな成功を手にした[22]。2度にわたってセリエBの中位となった後、ジェノアはルイジ・シモーニを監督として、1980-81シーズンに前シーズンのトトネロスキャンダルで強制降格させられていたACミランに次ぐ2位で昇格を果たした[23]。
依然として監督の座にあるシモーニの下、セリエA復帰初シーズンを降格圏内のACミランから勝ち点差わずか1で残留を決めた。最終節ナポリ戦では、残り5分まで2-1でジェノアが追いかける側だったが、85分にマリオ・ファッチェンダのゴールが決まって必要な勝ち点を獲得した。これが両クラブファンによる友好関係の始まりだった[24] 。
それから2シーズン後の1983-84シーズンには、最終節でスクデットのユヴェントスを破ったが、残留したラツィオと勝ち点の数では並びながらも降格を余儀なくされた。これはラツィオがジェノアとの直接対決でより良い試合結果だったことによる[25]。
近年
2003年、低迷と財政難に苦しむクラブを玩具王エンリコ・プレツィオージが買収し、以来積極的な補強を行ない、名門復活に取り組んでいる。
2004-05シーズンではセリエBで優勝した(本来ならトップディビジョンのセリエA復帰が決まるはずだった)が最終節での試合の不正操作が発覚し、ペナルティとして順位が最下位扱いになり(2位以下は順位繰り上げ)、セリエC1(3部リーグ)に降格した。その後は好成績を収め、2006-07シーズンにセリエB3位となり、セリエAへ復帰した。
タイトル
国内タイトル
- 1898、1899、1900、1902、1903、1904、1914-15、1922-23、1923-24
- セリエB:6回
- 1934-35, 1952-53, 1961-62, 1972-73, 1975-76, 1988-89
- セリエC:1回
- 1970-71
- 1937-38
国際タイトル
- コッパ・デッレ・アルピ:2回
- 1962, 1964
- 1996
過去の成績
- 1946-47 セリエA 10位
- 1947-48 セリエA 12位
- 1948-49 セリエA 7位
- 1949-50 セリエA 11位
- 1950-51 セリエA 20位 降格
- 1951-52 セリエB 5位
- 1952-53 セリエB 1位 昇格
- 1953-54 セリエA 12位
- 1954-55 セリエA 11位
- 1955-56 セリエA 10位
- 1956-57 セリエA 16位
- 1957-58 セリエA 13位
- 1958-59 セリエA 11位
- 1959-60 セリエA 18位 降格
- 1960-61 セリエB 13位
- 1961-62 セリエB 1位 昇格
- 1962-63 セリエA 15位
- 1963-64 セリエA 8位
- 1964-65 セリエA 16位 降格
- 1965-66 セリエB 5位
- 1966-67 セリエB 12位
- 1967-68 セリエB 15位
- 1968-69 セリエB 6位
- 1969-70 セリエB 20位 降格
- 1970-71 セリエC 1位 昇格
- 1971-72 セリエB 8位
- 1972-73 セリエB 1位 昇格
- 1973-74 セリエA 16位 降格
- 1974-75 セリエB 7位
- 1975-76 セリエB 1位 昇格
- 1976-77 セリエA 11位
- 1977-78 セリエA 14位 降格
- 1978-79 セリエB 12位
- 1979-80 セリエB 11位
- 1980-81 セリエB 3位 昇格
- 1981-82 セリエA 13位
- 1982-83 セリエA 12位
- 1983-84 セリエA 14位 降格
- 1984-85 セリエB 6位
- 1985-86 セリエB 7位
- 1986-87 セリエB 6位
- 1987-88 セリエB 14位
- 1988-89 セリエB 1位 昇格
- 1989-90 セリエA 11位
- 1990-91 セリエA 4位
- 1991-92 セリエA 14位
- 1992-93 セリエA 13位
- 1993-94 セリエA 11位
- 1994-95 セリエA 15位 降格
- 1995-96 セリエB 7位
- 1996-97 セリエB 5位
- 1997-98 セリエB 9位
- 1998-99 セリエB 12位
- 1999-2000 セリエB 6位
- 2000-01 セリエB 12位
- 2001-02 セリエB 12位
- 2002-03 セリエB 18位
- 2003-04 セリエB 16位
- 2004-05 セリエB 1位→22位 降格(八百長事件のペナルティ)
- 2005-06 セリエC1 2位 昇格
- 2006-07 セリエB 3位 昇格
- 2007-08 セリエA 10位
- 2008-09 セリエA 5位
- 2009-10 セリエA 9位
- 2010-11 セリエA 10位
- 2011-12 セリエA 17位
- 2012-13 セリエA 17位
現所属メンバー
- 2014年7月26日現在
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括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
レンタル移籍
- in
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- out
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13/14移籍
歴代監督
以下はジェノアがサッカークラブとなった1896年以降の年代順の監督一覧である。ジェノアにはこれまで多くの監督・トレーナーがおり、いくつかのシーズンには共同監督がチームを率いた。[15]
歴代所属選手
GK
- テンプレート:Flagicon ステファノ・タッコーニ 1994-1995
- テンプレート:Flagicon ルビーニョ 2006 - 2009
- テンプレート:Flagicon マルコ・アメリア 2009 - 2010
DF
MF
FW
永久欠番
参考文献
外部リンク
テンプレート:ジェノアCFCのメンバー テンプレート:Navbox
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 テンプレート:Cite web
- ↑ 2.0 2.1 2.2 テンプレート:Cite web
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- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 テンプレート:Cite book
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- ↑ テンプレート:Cite web
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