ゲイ雑誌
ゲイ雑誌(げいざっし)とは、男性同性愛者向けにつくられた雑誌である。
グラビアや官能小説、成人向け漫画を中心にしたポルノ雑誌であるが、ゲイのための生活情報的な記事も多い所が異性愛男性向けの成人誌と異なる。
目次
日本におけるゲイ雑誌
概要
薔薇族(ばらぞく)、SAMSON(サムソン)、Badi(バディ)、G-men(ジーメン)の4誌が、2012年時点で発行されている代表的な日本のゲイ雑誌である。老舗のアドン(1974年5月号創刊)、さぶ(1974年11月創刊)、The Gay(1978年「The Ken」として創刊)は廃刊になった。
体型や年齢などの嗜好で各誌のコンセプトは異なり、読者の棲み分けがなされている。薔薇族とBadiが若年層を中心とした総合誌、G-menが野郎系専門誌、SAMSONがデブ専誌であり、廃刊になったさぶが20-30代中心の野郎系、アドンは若年・スポーツマン系、The Gayが若年・普通体型中心誌であった。
購買対象が限られているため、同様の仕様の一般誌に比べ若干高価である。
昨今はオリジナルDVD等が付録として付くこともある。
1980~90年代半ばまでは、薔薇族、アドン、さぶ、The Gay、サムソンの5誌が併存する時代が続いた。しかし競合誌の増加、インターネットなどの普及により苦戦が続き、薔薇族は3度目の復刊を果たしたものの、他の老舗を含むゲイ雑誌の一部は現在休刊している。
特徴
内容は各誌とも、グラビアや官能小説、ポルノ漫画のほか、同性愛関連の情報・ゴシップ、体験談、悩み相談、ゲイに出会いの場を提供する「通信欄」などからなる。通信欄は、最盛期には薔薇族だけで1000通近くが掲載されていた[1]。全ページの1/3近くがゲイバー、ゲイビデオ、ゲイ風俗などの広告で占めていた時期もある。
グラビア
1980年代半ば頃までのゲイ雑誌はオリジナル・モデルだけではなく、海外のゲイ雑誌などからの転載が多かった。その頃は薄いぼかしやマジックの小さい点を一点だけ打ったような修正しか施されていないことがあり、局部はほとんど露わになっていた。80年代後半頃からオリジナルモデルに加え、新作ゲイビデオをグラビアページで紹介することが多くなった。ゲイビデオには最初から修正が施されているのと、その頃東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起きて警察の猥褻への取り締まりが厳しくなったこともあり、修正は濃くなっていった。
歴史
戦後初期 -カストリ雑誌と同人誌の時代
1945年 - 1950年代
戦後間もなく、「奇譚クラブ」(1947年-75年、曙出版)、「人間探究」(1950年5月-53年8月、第一出版)、「あまとりあ」(1951年-55年、あまとりあ社)、「風俗草紙」(1953年7月-54年、日本特集出版)、「風俗科学」(1953年8月-55年、第三文庫)、「裏窓」(1956年-65年、久保書店)などのSMやポルノ、性科学を扱った雑誌に男女ものの作品に混ざって、男性同性愛や男性写真、男色小説が時折り取り上げられていた[詳細 1]。また『第一読物』、『オール小説』、『探訪読物』などの文芸誌などにも、男娼が出てくる作品が載ることがあった[詳細 2]。
時を同じくして、作家の三島由紀夫らが所属した「アドニス会」というゲイシーンの黎明期を象徴する会員制同性愛サークルが発足しており、1952年(昭和27年)9月10日には、日本初の会員制のゲイ雑誌「アドニス」[2]が創刊された。これは男性同性愛を扱った非合法の不定期刊行物(ミニコミ誌)で、1962年に63号で廃刊になるまで約10年続き、別冊として小説集「APOLLO(アポロ)」と、会員による手記集「MEMOIRE(メモワール)」[3]も刊行されている。初代編集長は上月竜之介だった。彼は「人間探究」の編集にも携わっていて、同誌編集部には同性愛者の苦悩を訴える投書が届けられていたことから、それが彼にアドニスの発刊を決意させたとされる。因みにアドニス会創会の告知も人間探求誌上でなされている。2代目編集長がかの推理・幻想小説家中井英夫の恋人でもあった田中貞夫で、中井英夫の他、歌人・塚本邦雄や三島由紀夫らも変名で寄稿している。
1959年(昭和34年)10月(?)頃[4]には大阪で、アドニスと同じ会員制の同性愛誌「同好」(同好趣味の会)が創刊されている。編集者は保守派の政治結社運動にも関わった毛利晴一で、最盛期には会員数が1,000人を数えた[5]。1968年(?)頃に誌名が同好から「清心」に改められている[6]。
1960年代以降
1960年(昭和35年)には「奇譚クラブ」の後輩誌に当たるSM雑誌、「風俗奇譚」(1960年-75年、文献資料刊行会)が創刊され、男性同性愛専用ページが常設された。同誌では後に「薔薇族」(後述)を創刊することになる藤田竜と間宮浩がライターとして知り合っている。また「薔薇族」の表紙絵も書いた大川辰次、「薔薇族」から「さぶ」に移り表紙絵を描いた三島剛のほか、船山三四、平野剛など、後に商業ゲイ雑誌に舞台を移して活躍するゲイの作家群がデビューしている。同誌にはゲイ同士の文通欄があったり、発展旅館の広告が載っていたほか、女装関係の記事も多く、1961年1月号からは女装者専用の交際欄「女装愛好の部屋」が設けられた。僅か2頁だけだったが女装関係の常設記事が登場した雑誌としては日本初であった[7]。
1964年(昭和39年)7月、「風俗奇譚」の編集者でもあった高倉一が、会員制の月刊同性愛誌「薔薇」を創刊し4年ほど続いた[8]。同誌には「風俗奇譚」にも書いていた間宮や大川、平野、三島剛らも作品を寄せている。
1968年10月には澁澤龍彦責任編集で、エロティシズムと残酷の綜合研究誌という触れ込みで「血と薔薇」(天声出版)が創刊され、4号まで出された(澁澤編集は3号まで)。ゲイ雑誌ではなかったが、創刊号では「男の死」という特集で三島由紀夫のヌード(「聖セバスチャンの殉教/溺死」)や、その他のメールヌード、男色についても取り上げられ、三島由紀夫、稲垣足穂、高橋睦郎、植草甚一、堂本正樹らが同性愛関係記事の寄稿をした。
その他、創刊年は不明だが、1950~60年(昭和20~30年)代に創刊されたと思われる「羅信」(編集者:扇屋亜夫)、「MAN」(No.6が1955年刊、編集・発行人:鹿火屋一彦)、「楽園」があった。こうした同人誌や風俗誌が後述の商業ゲイ雑誌の原型になったと言われている[9][10]。
一般の雑誌では、商業ゲイ雑誌創刊前の1960年代、「平凡パンチ」に「クールなセックスの時代 同性愛-なぜホモにあこがれるか-」(1965年2月15日号)が載ったのをきっかけに、同誌に同性愛関連記事が多く(6年弱で20本前後)掲載された時期があった[詳細 3]。同誌は当時の若者のバイブル的な存在でもあった。
'70s以降 -商業ゲイ雑誌の創刊期
1971年7月にはゲイ雑誌としては日本で7番目以降、商業ゲイ雑誌としては日本初の「薔薇族」(同年9月号)が第二書房から発行された。創刊時には美輪明宏もロールスロイスに乗って第二書房を祝福に訪れている。1972年には月刊タブロイド紙「アドニスボーイ(The AdonisBoy)」(12月1日発行,アドニス通信社)[11]が創刊された。1年間で12号まで出され、それが「アドン」(1974年5月号創刊)の元になった。またアドニスボーイに対抗するように「薔薇族ニュース」も出たがすぐに消えている。さらに「さぶ」(1974年11月創刊)、アドンと同じ出版社からポルノを載せない「MLMW(ムルム)」(1977年7月号創刊)[12][13]、東郷健が編集長を務めた「The Ken」(1978年創刊)[14]、The Kenから改題した「The Gay」(1981年9月創刊)[15]、「サムソン」(1982年7月創刊)がそれに続いた。1979年6月にはコミック感覚の「スーパーモンキー」(アダムズ出版)[16]、1986年11月には薔薇族から増刊号の形で「バラコミ」[17]というコミック誌が出ている[10]。1970年代には「漫倶楽部 Roman club」(浪漫社)も創刊されている。「男と男の愛のマガジン」と銘打っており、創刊号の編集は楡賢一郎、2号は木暮未知人が務めた。4号以降は「ヤック翔龍社」から出された[18]。創刊月および何号まで出されたかは不明だが、6号までは国会図書館に所蔵されている。
70~'90s中頃 -隆盛期
1970年代~90年代中頃まではゲイ雑誌がゲイ向けメディアの中心に位置していた。1977年(昭和52年)1月、薔薇族50号記念号(3月号)に詩人寺山修司が『世界はおとうとのために』という詩を寄せた[19]。1981年には薔薇族10周年の盛大なパーティーが開かれ、100号の記念号を刊行した暁には「週刊文春」にも記事が載った[20]。また1980年代頃まではゲイバーや発展場を除いては、出会いツールとしての役割も独占し、その頃出会いの場が限られていたゲイ男性に貴重な出会いの場を提供していた。それが80年代終わりのバブル時代頃からゲイ専用伝言ダイヤルやダイヤルQ2[21]が広まることで、出会いの場を提供するのはゲイ雑誌の通信欄だけではなくなり、出会いツールとしての不動の地位が揺らぎ始めていく。
また1980年代はゲイ雑誌界に2つの変化が起きた。一つが「アドン」が1980年代後半頃から、それまでのポルノ中心路線からゲイリベレーションに関する記事を増やし始めたこと、もう一つが創刊当初は若専・普通体型路線だったサムソンが数年後にデブ専路線に転じたことである。アドンは90年前後頃からはポルノ系の記事はほぼ載せなくなった。その頃は、HIV問題やゲイがいかに生きるかというアクティビティに注目が集った時期でもあり、アドンの誌面ではゲイ団体のメンバーのゲイ・スタディーズやマルクス主義的なゲイ解放理論がよく紹介されていた。それが原因の一つともなり、同誌の部数は低迷して96年に廃刊することになる。
'90s中頃以降 -新興ゲイ雑誌の創刊
1990年代に入ると「Badi」(1994年11月創刊)や「G-men」(1995年3月創刊)などの新しいゲイ雑誌の創刊が相次いだ。薔薇族やさぶといった従来のゲイ雑誌は、ゲイの世界とは下半身の繋がりしかない「既婚者のための趣味の雑誌」というスタンスで、こと異性愛者の薔薇族編集長・伊藤文學は「ゲイには圧倒的に末っ子が多く、母親が甘やかして育てるから同性愛者になる」というネガティブな考えを繰り返しコラムやテレビのインタビューで表明し、同性婚にも否定的で女性との結婚を勧めていた[22]。時代の制約があったとはいえ、同性愛者を弱者と決めつけ、「可哀想な同性愛者」「同性愛者を理解して上げている」という上から目線に終始し、府中青年の家裁判などにも冷ややかだった。ゲイライターの伏見憲昭は当時の薔薇族について「異性愛者の編集長が“可哀相なホモたち”を諭し擁護する構図は、ゲイたちの中に自らのセクシュアリティに対する『後ろめたさ』を持たせた」といっている[23]。また東郷健はゲイの当事者性を重視する立場から「ゲイでない人間がゲイを食いものにしている」と伊藤を批判していた[24]。そんな同誌の編集方針はゲイの共感を得られず、部数は低迷し、後に休刊を余儀なくされる。
それに対し新興のG-menとBadiの2誌は同性愛をポジティブに捉え、ゲイであることをこの際楽しんで生きようというスタンスで、新しいゲイシーンを提案した。従来の気の毒な同性愛者というスタンスの薔薇族、ゲイリブ偏重で理屈っぽいアドンに対し、それは斬新なスタイルといえ多くのゲイの共感を呼ぶことになる。伊藤の同性婚を否定したコラムをめぐり、後発の「Badi」と誌面で論争にもなっている[25]。ただしBadiの伊藤のコラム批判は決して挑発的なものではなく、先輩誌に敬意を払いながら同性婚を否定する姿勢は悲しい、と静かに綴るものだった。その後伊藤はコラムで同性婚の否定を撤回している。因みにBadi編集部にはマツコ・デラックスやブルボンヌが在籍した。
1997年にはBadiと同じテラ出版からコミック誌の「パレード」(季刊)[26]、1999年にはやはりテラ出版から「ファビュラス」が発行された。ファビュラスの編集長はBadiの初代編集長でもあったマーガレットこと小倉東で、かつて存在したMLMWと似て、成人記事は載せず、主として海外のゲイ情報などを誌面にし、スポンサーにタワーレコード、ユナイテッドアローズなど一般企業が参加したことでも注目されたが、2000年6月に休刊した[27]。同じ99年には「QUEER JAPAN」(勁草書房)が創刊された。編集長はゲイライターの伏見憲明で、ゲイライフや老後などの問題をアカデミックに取り上げた。1999年はまたG-menと同じ古川書房から、男性SM専門誌「Super SM-Z」も創刊された。
'90s後半以降 -ネットの隆盛
Windows95が発売された1995年以降、それまでは一部の人がするだけだったインターネットが爆発的に普及する。その頃から「MEN'S NET JAPAN」(1996年開設)などに代表されるゲイ専用サイトも急激な普及を見せ始め、ゲイ雑誌を買わなくても男性ヌードを見たり、携帯版を含めた出会い掲示板やチャットなどで、簡単にゲイ同士が交流できるようになった。アドンはヌードを載せなくなったことなどが原因で96年に廃刊になっていたが、2000年代に入るとその他の老舗ゲイ雑誌がインターネットの荒波に飲まれ、次々と休・廃刊を余儀なくされていった。さぶは2002年2月号で休刊し、The Gay(休刊年月不明)も休刊に至った。薔薇族は2004年に一旦休刊したが、紆余曲折を経て、2007年に3度目の復刊を果たしている。
2006年にはタワーレコードがGLBTマーケット向けの雑誌としてファビュラスと似た「yes」を創刊した。成人向けの記事はなく、海外のGLBTコミュニティ事情や音楽・ファッションといったものをメインの記事とし、掲載される広告も一般企業のものであり、GLBTの新マーケット創出、若しくは旧来のマーケットの拡大傾向として着目されたが、Vol.5以降は発刊されておらず、事実上の休刊となっている。
これからはタブレット端末やスマートフォンへの配信が注目されている。
ゲイ雑誌衰退の影響
ゲイ雑誌が読まれなくなったことで、ゲイ同士で情報や意識の共有がなされなくなったといわれる。かつてはゲイ雑誌のコラムや特集で、その賛否は別としてオピニオンが展開されており、それを読むことでゲイとしてのアイデンティティを形成するのに役立った。また人気回答者による「人生案内」のような連載もあり、他人の悩みを読むことで問題解決力を身に付けることもできた。
それがインターネット時代になったいまは、自分が興味のあるアダルトサイトや出会いサイト、ゲイAVにしか目が向けられなくなっている。一部ゲイサイトには悩み相談コーナーがあるが、カウンセリングの知識を持ち合わせていない素人ユーザーや、ゲイになりすました異性愛女性(腐女子)が回答するものが多く、中には匿名性に付け入ってゲイに心ない言葉を浴びせる回答もある。一部ゲイコミュニティには、ゲイを装った異性愛女性が入ってきて荒らす、腐女子版「ネカマ」行為が横行しているところもある。またゲイの権利の拡張や同性婚などについて問題提起をするのも、専ら極一部のゲイ団体だけに限られてしまっている。
SNSなどでゲイコミュニティが生まれ、1991年から始まったゲイパレードは現在でも行われてはいるものの、オピニオン不在の状況が、ゲイを取り巻く環境に今後どのように影響していくかは未知数だ。同じ旧メディアである新聞が衰退したアメリカでは、政府や役所の贈収賄が追及されなくなり、腐敗が進んだとの報告もある。
流通
ゲイビデオが新宿2丁目などのゲイショップでしか売られていなかったのに比べ、1971年の薔薇族創刊直後の早い時期からトーハン、日販などの取次店を通して、全国の一般書店に配本されていた[28]。その為、郊外や地方都市の駅前の小さな書店でも、取り扱っていることが多かった。
ミニコミ誌
1970年代後半以降、商業誌の他に、当時の若いゲイたちが様々なゲイサークルを作り、ミニコミを発行するようになった。1950~60年代前半のアドニス、薔薇、同好といったミニコミ誌が秘密結社的な趣があったのとは異なり、ゲイの権利を世の中に訴え、ゲイムーブメント的な色彩を持っていた。
1977年5月に既成のゲイ雑誌に不満を持った人たちが、ゲイムーブメントを編集趣旨として美少年マガジン「プラトニカ」を発刊。そのプラトニカを母体としてサークル「プラトニカ・クラブ」が結成され、同クラブの1979年3月の会合で機関紙「GAY」の発刊が決まった。そしてプラトニカ・クラブから数人が参加して作られた「JGC」(ジャパンゲイセンター)から「GAY」(1979年7月創刊)、「CHANGE」(1981年5月創刊)が出されていた[10]。
また1978年にTBSラジオ「スネークマンショー」の中の「ウェンズデースペシャル」という15分のコーナーを、タック(大塚隆史)というゲイパーソナリティが担当しゲイに関するテーマが取り上げられていた。そして「ウェンズデーニューズ」というミニコミが発行されていた。またそこからはOWC(アワーズ・ワーク・コミュニティー)というグループも生まれ、会報(1980年1月、1号刊行)も出ていた[10]。
1980年代中頃になると、IGA(国際ゲイ連盟)日本支部やOCCURなど、様々なゲイ団体ができたり、大学などでも様々なゲイサークルが発足し、そこでもミニコミは出されていた。
1994年には関西のゲイサークル「GAY-FRONT関西」(現・G-FRONT関西)が発足し、ニュースレター「UP&UP」や機関紙「Poco a poco」などを発行している。
日本のゲイ雑誌一覧
- ADONIS(アドニス)(アドニス会、会員制同性愛雑誌、1952年9月~1962年63号まで。初代編集長は上月竜之介、2代目が推理小説家中井英夫と同棲していた田中良夫)
- 羅信(1950~60年《昭和20~30年》代創刊、会員制同性愛雑誌、編集者:扇屋亜夫)
- MAN(No.6が1955年刊、会員制同性愛雑誌、編集・発行人:鹿火屋一彦)
- 同好(1959年10月頃大阪で創刊、会員制同性愛雑誌、編集長・毛利晴一)
- (SM雑誌「風俗奇譚」《1960年-75年、文献資料刊行会》に男性同性愛専用ページと女装者専用ページが常設)
- 薔薇(1964年7月創刊、会員制同性愛雑誌、編集者・高倉一)
- 楽園(創刊年次不明)
- (血と薔薇《1968年-69年、エロティシズムと残酷の綜合研究誌、1~3号は澁澤龍彦責任編集、4号平岡正明編集》ゲイ雑誌ではなかったが、メールヌードや男色も取り上げられる)
- 薔薇族 (第二書房、1971年7月に9月号として創刊)
- バラコミ(薔薇族の増刊号として1986年11月に出されたゲイコミック誌。山川純一の漫画が人気になった。2号で休刊)
- アドン (砦書房、1974年5月号創刊、90年代前半にゲイ理論誌にリニューアルしお色気を殆ど掲載しなくなった後、96年末休刊。いくつか増刊号あり)
- さぶ (サン出版、1974年11月創刊、2002年2月号で休刊。いくつか増刊号あり)
- The Ken (雑民の会、1978年創刊、「The Gay」の前身、編集長・東郷健)
- The Gay (発行T.I.Y.出版又は楽久企画、発売「噂の真相」、1981年9月「The Ken」から改題、現在休刊、編集長・東郷健)
- スーパーモンキー(アダムズ出版、1979年6月刊行)
- 漫倶楽部(浪漫社、1970年代創刊のゲイ雑誌。4号以降はヤック翔龍社)
- SAMSON (海鳴館、1982年7月創刊)
- Badi (テラ出版、1994年11月、1995年1月号創刊)
- 「パレード」(季刊のコミック誌、1997年創刊)
- ファビュラス(テラ出版、1999年11月創刊、編集長は小倉東(マーガレット)でスポンサーにタワーレコード、ユナイテッドアローズなど一般企業が参加したが2000年6月休刊)
- G-men (古川書房、1995年3月創刊)
- Super SM-Z(古川書房、1999年創刊、野郎系SM専門誌)
- P-NUTS(光彩書房、ホモ男性向けゲイコミック誌、1996年創刊、同年に4号で廃刊)
- Queer Japan(勁草書房、1999年11月創刊、その後休刊。編集長はゲイライターの伏見憲明)
- yes (2006年創刊、現在休刊)
海外におけるゲイ雑誌
詳細は「en:List of LGBT periodicals」参照。 テンプレート:Sectstub
脚注
- ↑ ニコニコニュース2011年10月30日伊藤文学の発言[1]
- ↑ アドニス1960年52号 表紙1960年52号 中身
- ↑ 「風俗奇譚」、アドニス別冊手記集「MEMOIRE(メモワール)」、「奇譚クラブ」の画像
- ↑ 『同好』24・25合併号に「本会創立二周年記念パーティ開催」(1961年/昭和36年10月29日)と書かれており(伏見憲明著『ゲイという「経験」』増補版「ゲイの考古学」)、会の創立は1959年10月で間違いないが、同好誌の創刊は会創立年時と同じかは未検証。
- ↑ 2007年11月29日伊藤文学のひとりごと「古いゲイ雑誌『同好』を読んで思うこと」
- ↑ 「清心 創立九周年特集号」。
- ↑ 三橋順子「日本女装昔話」第3回「1960年代の女装世界を語る雑誌『風俗奇譚』」。
- ↑ 薔薇族1974年16号「高倉一『間宮浩君のこと』」
- ↑ バディ1997年4月号ゲイの考古学「遺産ファイル④M検」、2005年10月20日伊藤文学のひとりごと『アドニス』誕生秘話[2]
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 「オトコノコのためのボーイフレンド:ゲイ・ハンドブック」(1986年発行少年社・発売雪淫社)
- ↑ 「アドニスボーイ」画像
- ↑ 「MLMW」画像
- ↑ 2005年5月29日伊藤文学のひとりごと「時代を先取りした『ムルム』という雑誌」
- ↑ 「The Ken」創刊号他 画像
- ↑ 「The Gay」1989年4月号 画像
- ↑ 「スーパーモンキー」画像1画像2画像3画像4
- ↑ 薔薇族増刊号「バラコミ」画像
- ↑ 『漫倶楽部 Roman club」(浪漫社)国立国会図書館。創刊号は、「特集 男の汗が光る時」、日暮光貴「美童の譜」、若月弦一郎「アデンの赤い月」などの記事があり、2号は、「美青年裸身熱写」「おとこの旅立ち=二人だけのアルバム すれ違った男の香に、わき昇る思慕」、「曼荼羅華 クールな倒錯、幻想を描く」、「スウェーデンの森 -海外取材小説- 北欧神話の世界、白く凍てつく針葉樹林、健一は…」、「ロマンクラブ・ルームメイト 貴男の交歓室。メイトを求めよう」「映画におけるホモ・セクシャリティ考現学」など。
- ↑ 2012年2月27日伊藤文学のひとりごと「上京してきた寺山修司君との、最初の出会い
- ↑ 「ホモ界の●●新聞『薔薇族』百号記念までの悪戦苦闘」(1981年4月16日号)
- ↑ ゲイ専用TWO SHOTダイヤル
- ↑ 薔薇族1981年12月号などの「伊藤文学のひとりごと」。
- ↑ ゲイライターの伏見憲昭は薔薇族を「孤立していたゲイをゲイ情報にアクセスさせた功績」があった反面、「異性愛者の編集長が可哀相なホモたちを啓蒙し代弁するスタンス」と評し、「異性愛者の編集長がホモを諭し擁護する構図は、ゲイたちの中に自らのセクシュアリティに対する『後ろめたさ』を持たせた」といっている(Badi1998年5月号「ゲイの考古学 -メディア編2-」)。
- ↑ 2005年6月30日伊藤文学のひとりごと「花の昭和7年生まれ”もうひと花を」。
- ↑ JGSのミニコミ紙「CHANGE」(1981年8月号)も「拝啓 伊藤文学殿」と題して、伊東の女性との結婚を勧める発言を批判している。
- ↑ Badi1997年4月号に創刊2号の広告あり。
- ↑ レズビアンとゲイとストレートのためのメールマガジン「MILK」vol.23 1999/11/22
- ↑ ネット版伊藤文學のひとりごと「廃刊のいきさつ」。
- ↑ MLMWの表紙
- ↑ 戦後直後の同性愛を取り上げた各雑誌記事(極一部抜粋)。
『奇譚クラブ』- 「僕の男妾の告白」1947.12
- 「男娼を衝く」1948.1
- 「男子同性愛雑考 (附・戦争と同性愛)」1952.6
- 「ソドミーとレスボスの愛」1952.8
- 「現代陰間茶屋談義」1952.8
- 「天国か地獄か:男子同性愛者の集い」1951.1
- 「蔭間考」1951.1
- 「男色考」1951.6
- 「同性愛者村山槐多の生涯:紫の鬼薊」1952.5
- 「男色懺悔-ホモの誇る『トゥルー・ラブ』」1952.5
- 「ヨーリッパに於ける同性愛」1951.4
- 「男色風俗」1952.11
- 「同性愛(ホモ)における精神派と肉体派」1954.8
- 「同性愛のユートピア」1954.11
- 「ホモにおける美少年趣味」1954.12
- 「奇態同姓愛談(1)女から逃げる男たち」1953.4
- 「男色喫茶店:同士を索めるソドム族の倶楽部として」1953.7
- 「特集囚獄の記録:男色営倉」1953.8
- 「男と男の世界 ソドミー」1954.9
- 「男色閑談」1953.8
- 「美少年記」1953.10
- 「男色者の巣窟探訪記:そどみあはあなたの隣にいる」1954.2
- 「ホモの花束(1):同性愛の百科事典」1954.6
- 「男色喫茶店の実相」1954.3
- 「男色遍歴」1954.5
- 「ある青春彷徨:仮面の青春」1958.3
- 「あるホモの告白:白い炎」1958.11
- 「裏窓タウン ゲイバーに変貌について」1963.4
- 「私本・男色大鑑第一話:若道のほこりたかく」1964.1
- 「私本・男色大鑑第四話:嬲られた稚児」1964.4
- 「男色を愛し、妻にまで鶏姦を求める性倒錯者」1960.1
- 「会員三百人の男色クラブ」1960.3
- 「尻掘り番頭」1960.5
- 「"美少年の家" 探訪記-"第四の性"といわれる、その実体-」1960.8
- 「ホモの窓:三都のホモ旅館」1961.10.
- 「ホモの窓:P感覚しのぐA感覚」1962.3
- 「ホモの窓 こんなP鍛錬法」1961.2
- 「ほも禁秘帖 少年愛の人びと」1960.11
- 「ホモの窓:「セクスティーン」の中のホモ笑話」1961.7
- 「ホモの窓:大阪ゲイ・バー案内」1961.11
- 「全国ホモのハッテン場:若い自衛隊員の多い長崎駅の"事務所”」1963.1
- 「全国ホモのハッテン場:仙台の映画館で」1963.12
- 「全国ホモのハッテン場:週刊誌に紹介された横浜の"事務所”」1963.12
- ↑ 戦後直後の文芸誌に載った男娼作品(抜粋)。
- 1949年6月1日『オール小説』「男娼ホテル:男娼の生態の一章」(富田英三)
- 1949年9月1日『講談読物』「男娼マリイ:男娼の生態の一章節」(富田英三)
- 1949年9月1日『第一読物』「大阪の男娼」(崎山献逸)
- ↑ 平凡パンチに載った同性愛関連記事一覧。
- 1965年2月15日「クールなセックスの時代 同性愛-なぜホモにあこがれるか」
- 1965年3月22日「加賀まりこの同性愛旅行-安井かずみと水入らず(?)で渡欧-」
- 1965年11月15日『平凡パンチデラックス』「統計が示した…ホモ男性化への危険な道」奈良林祥
- 1966年6月20日「性転換女性の公認第一号」
- 1966年6月27日「20代女性にふえてきたレズビアン・ラブ」
- 1966年9月12日「これが現代的アブ・ラブの実態だ 20代に流行する"性的異常"の現場検証」
- 1966年12月12日「男性は女装がお好き?=仮装パーティーにあらわれた深層心理=」「同性愛に生きた女形の自伝」
- 1967年02月06日「禁男の愛を求めるレズビアンの実態」
- 1967年4月10日「ブルーボーイ学入門」
- 1967年6月26日「キミは同性愛をどう思う」
- 1967年9月25日「レズビアン・バーに潜入」
- 1967年10月23日「<<ホモ>>の集る店おしえます」
- 1967年10月30日「キミみのホモの傾向がひそんでいる」
- 1968年3月4日「特集1SEXチェック レズ族最高のアイドル 山添のり子突然の失踪?」「特集2 SEXチェック 丸山明宏のセックス この神秘的主演女優?の正体は」「特集3 SEXチェック 女のコを興奮させる佐良直美」
- 1968年4月29日「グラビア 女優・丸山明宏、女より女らしいと評判」
- 1968年9月22日「同性愛(ホモ) 七つのタイプ - ホモ・ブームの複雑な中身」
- 1970年8月3日「キミにゲイ・バーの遊び方を教えよう」
- 1970年9月7日「ホモが多い職業広域チェック~サーカスの道化師から大学教授まで~」
- 1970年9月14日「あるゲイ・ボーイ君の法廷闘争」
- 1970年11月2日「ソドム人間を解剖する -男色の世界 その仮説と真説-」