グロリア・アロヨ
グロリア・マカレイグ・マカパガル=アロヨ Gloria Macapagal-Arroyo | |||||
ファイル:Gloria Macapagal-Arroyo, Davos.jpg |
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任期 | 2001年1月20日 – 2010年6月30日 | ||||
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副大統領 | テオフィスト・ギンゴナ(2001-2004) ノリ・デ・カストロ(2004-2010) | ||||
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢 リサール州en:San Juan, Metro Manila | ||||
政党 | en:Lakas-Christian Muslim Democrats en:Kabalikat ng Malayang Pilipino |
配偶者 | ホセ・ミゲル・アロヨ | 署名 | 128px |
グロリア・アロヨ(María Gloria Macaraeg Macapagal-Arroyo、マリア・グロリア・マカレイグ・マカパガル=アロヨ、1947年4月5日 - )は、フィリピン共和国第14代大統領(在任2001年1月20日 - 2010年6月30日)。学歴はフィリピン大学経済学部博士課程修了。学位は経済学博士(フィリピン大学)。通称GMA。
人物
フィリピンの第9代大統領テンプレート:仮リンクの娘として生まれた。地元の高校卒業後、2年間アメリカのジョージタウン大学に留学、ビル・クリントン元米大統領とクラスメートだった。その後、帰国しフィリピン大学から経済学博士号取得、大学教員からアキノ大統領に抜擢されて貿易工業省局長に就任した。さらに同省次官を経て、1992年5月史上最高得票で上院議員に当選した。この間1968年にホセ・ミゲル・アロヨ(Jose Miguel Arroyo)と結婚し、3人の子を儲けている。
大統領として
1998年デヴェネシア(De Venecia)大統領候補の副大統領として立候補したが、フィリピンの大統領選挙は正副大統領の選挙が別に行われるため、デヴェネシア候補は落選、アロヨは副大統領として当選した。同年6月エストラダ大統領(Estrada)の副大統領に就任し、2001年1月20日エストラーダ大統領に対する弾劾が成立すると大統領に昇格した(en:EDSA Revolution of 2001)。これに対してエストラーダ派からアロヨ大統領の正当性を疑問視する声が高まり、最高裁判所の判決が下りているにもかかわらず、デモ・暴動や反乱が起こった。2001年11月、イスラム教徒ミンダナオ自治地域(ARMM)での選挙(en:Autonomous Region in Muslim Mindanao general election, 2001)で、モロ民族解放戦線(MNLF)の議長ヌル・ミスアリと対立関係にあった同副議長パロウク・フシン(Parouk S. Hussin)を支援した。
アロヨ大統領は当初1期で退任の意向であったが、思い直して2004年の大統領選挙に再度立候補し、次点候補に100万票以上の差を付けて当選した。しかし、公金を選挙資金に流用した疑惑が浮上して対立候補と揉めたが、2004年6月24日、議会によって当選を認められ、同30日セブ島で大統領就任式を挙げた。
またアロヨはイラク戦争に際し、フランス・ドイツ・ロシア・中国が反対した中、数少ない支持者となった。そのため、反米団体で構成されるICTI(イラク国際戦犯民衆法廷)では、ジョージ・W・ブッシュ・トニー・ブレア・小泉純一郎に加えてアロヨも起訴された。
下院議員として
2010年5月10日、長男のマイキー・アロヨ下院議員から、パンパンカ州第2区を選挙区として譲り受け、下院議員選挙に立候補して、当選。2011年11月18日、2007年の上院選に絡んだ選挙法違反容疑で逮捕。大統領経験者が逮捕されるのは、ジョセフ・エストラーダ以来。
2012年10月4日、公金の不正流用の疑いで警察に再逮捕された[1]。
2012年10月12日、マニラ退役軍人病院は、入院しているアロヨが、集中治療態勢に置いたことを発表した。これにより、15日の裁判所の出廷は難しい状況になった[2]。
関連項目
出典
外部リンク
- ↑ アロヨ前大統領を再逮捕 公金約7億円の不正流用容疑 - 朝日新聞(2012年10月4日)
- ↑ 集中治療態勢に=アロヨ前比大統領 - 時事通信(2012年10月13日)