クリート・ボイヤー

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テンプレート:Infobox baseball player クリート・ボイヤーCletis Leroy "Clete" Boyer , 1937年2月9日 - 2007年6月4日)は、アメリカ合衆国ミズーリ州出身のプロ野球選手内野手)・野球指導者。

来歴・人物

ボイヤー家は野球一家で、クリートの兄のクロイド・ボイヤーケン・ボイヤーもメジャーリーガーで、その他の兄弟も6人全員がプロになっている。

テンプレート:By5月31日にカンザスシティ・アスレチックスと契約し、同年6月5日にメジャーデビュー。テンプレート:Byシーズン途中にニューヨーク・ヤンキースへトレードされ、ヤンキースではテンプレート:Byにメジャー昇格を果たす。テンプレート:Byから正三塁手に定着し、同年からテンプレート:Byにかけてヤンキースのアメリカンリーグ5連覇に貢献。

テンプレート:Byアトランタ・ブレーブスに移籍し、テンプレート:Byにはナショナルリーグゴールドグラブ賞(三塁手)を獲得している。

本来であれば当時の日本でプレーするようなクラスの選手ではないが、テンプレート:By、在籍していたアトランタ・ブレーブスの首脳陣に対する批判を行い解雇され、メジャー他球団との契約をブレーブスによって阻害されたため、テンプレート:Byはアメリカ独立リーグのハワイ・アイランダース[1]でプレーしていたところ、大洋ホエールズスカウトの牛込惟浩に声を掛けられ、アメリカを見返すために入団した。

打撃は日本プロ野球の外国人選手としてみれば低い方だが、その打撃を補って余りある守備力を持ち、テンプレート:Byテンプレート:Byには連続してダイヤモンドグラブ賞を獲得している。当時、セ・リーグ三塁手には長嶋茂雄という絶対的スターがおり、その長嶋を差し置いて選出されたが、その守備は日本球界に強い印象を与え、高く評価されていた。

当時、ボイヤー・シピン米田慶三郎松原誠の内野陣は12球団でも屈指の堅守を誇った。なお、日本では問題児として知られていたシピンも、自身よりもはるかに格上な名門ヤンキースのレギュラー選手であったボイヤーの言うことにだけは絶対に逆らわなかったという。

テンプレート:Byに引退した後も守備コーチとして大洋に残り、コーチ就任1年目のテンプレート:Byには自分の後継者としてゲーリー・ジェスタッドを入団させている。ジェスタッドは1975年に日本ハムファイターズに入団し、ジェスターの登録名でプレーしていたが、打率.242、9本塁打、45打点と成績が振るわず、その年限りで解雇されていた。しかし、ボイヤーの「俺の引退後の三塁のポジジョンは彼しかいない」との一言で入団にこぎつけている。大洋での登録名はゲーリー。ゲーリーは大洋では18本塁打とホームランこそ前年から倍増したものの、打率は.236とさらに低迷。加えてボイヤーが育てた田代が三塁手として成長したために退団となった。こうしてボイヤーもゲーリーと共に退団した。

山下大輔田代富雄を指導したことでも知られる。そして、ボイヤーの教えを受けた者が後にコーチとなって技術を伝承したため、大洋・横浜を通じて鉄壁の内野陣が代々継承されている。周囲の選手からは「ティーチャー」と慕われた[2]

テンプレート:Byシーズンオフ、当時無名の選手であった高木由一が戦力外として解雇されようとしていたが、球団にかけあい、撤回させた。高木の素質を見抜いていたボイヤーは退団の際、高木に背番号6番を譲り渡した。

金銭面では高潔な人物で、大洋在籍中は年俸交渉を一切せず「君らの評価通りの金額を書き込んでくれ」と言い残し、契約書には金額欄を白地のまま署名だけして帰国したという逸話がある。

2007年6月4日、脳内出血のためアトランタの病院で逝去。満70歳没。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 KCA 47 82 79 3 19 1 0 0 20 6 0 0 0 0 3 0 0 17 3 .241 .268 .253 .521
テンプレート:By2 67 143 129 15 28 3 1 1 36 4 1 1 2 0 11 1 1 24 2 .217 .284 .279 .563
テンプレート:By2 10 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
テンプレート:By2 NYY 47 124 114 4 20 2 0 0 22 3 1 0 3 1 6 2 0 23 2 .175 .215 .193 .408
テンプレート:By2 124 431 393 54 95 20 1 14 159 46 2 3 7 5 23 1 3 85 7 .242 .285 .405 .690
テンプレート:By2 148 578 504 61 113 19 5 11 175 55 1 3 1 8 63 4 2 83 13 .224 .308 .347 .656
テンプレート:By2 158 633 566 85 154 24 1 18 234 68 3 2 5 8 51 8 3 106 17 .272 .331 .413 .745
テンプレート:By2 152 596 557 59 140 20 3 12 202 54 4 2 2 2 33 11 2 91 5 .251 .295 .363 .657
テンプレート:By2 147 554 510 43 111 10 5 8 155 52 6 1 3 4 36 11 1 93 12 .218 .269 .304 .573
テンプレート:By2 148 561 514 69 129 23 6 18 218 58 4 1 2 4 39 10 2 79 16 .251 .304 .424 .728
テンプレート:By2 144 558 500 59 120 22 4 14 192 57 6 0 4 6 46 4 2 48 9 .240 .303 .384 .687
テンプレート:By2 ATL 154 619 572 63 140 18 3 26 242 96 6 3 0 6 39 3 2 81 14 .245 .292 .423 .715
テンプレート:By2 71 291 273 19 62 7 2 4 85 17 2 0 0 0 16 3 2 32 8 .227 .275 .311 .586
テンプレート:By2 144 562 496 57 124 16 1 14 184 57 3 7 4 3 55 6 4 87 16 .250 .328 .371 .699
テンプレート:By2 134 525 475 44 117 14 1 16 181 62 2 5 3 5 41 8 1 71 11 .246 .305 .381 .686
テンプレート:By2 30 108 98 10 24 1 0 6 43 19 0 0 1 1 8 2 0 11 1 .245 .299 .439 .738
テンプレート:By2 大洋 99 372 347 38 99 12 0 18 165 51 0 3 1 0 22 1 2 38 10 .285 .332 .476 .807
テンプレート:By2 86 333 306 22 69 13 0 14 124 39 0 2 1 2 24 1 0 43 13 .225 .280 .405 .685
テンプレート:By2 118 458 432 44 122 16 1 19 197 65 0 0 1 2 22 0 1 48 13 .282 .317 .456 .773
テンプレート:By2 116 426 401 38 92 10 1 20 164 63 1 1 2 1 21 0 1 52 16 .229 .269 .409 .678
MLB:16年 1725 6365 5780 645 1396 200 33 162 2148 654 41 28 37 53 470 74 25 931 136 .242 .299 .372 .670
NPB:4年 419 1589 1486 142 382 51 2 71 650 218 1 6 5 5 89 2 4 181 52 .257 .300 .437 .737

表彰

MLB
NPB
MLBとNPBの両方でゴールドグラブ(ダイヤモンドグラブ)を受賞した最初の選手(他にはウェス・パーカーデーブ・ジョンソンイチロー)である。

背番号

  • 12 (1955年 - 1957年)
  • 34 (1959年 - 1961年途中)
  • 6 (1961年途中 - 1971年、1973年 - 1975年、1988年途中 - 同年終了、1993年 - 1995年)
  • 4 (1972年)
  • 41 (1980年 - 1985年)
  • 40 (1988年 - 同年途中)
  • 47 (1992年)

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:MLBstats

テンプレート:ナショナルリーグ ゴールドグラブ賞 (三塁手) テンプレート:セントラル・リーグ ゴールデングラブ (三塁手) テンプレート:1961 ニューヨーク・ヤンキース

テンプレート:1962 ニューヨーク・ヤンキース
  1. この時アイランダースにはのちにボイヤーとともに大洋へ入団することとなるジョン・シピンも在籍していた。
  2. ベースボールマガジン、2011年9月号 P71