エッセネ派
エッセネ派(テンプレート:Lang-he)は、紀元前2世紀から紀元1世紀にかけて存在したユダヤ教の一グループの呼称。現代では複数の関連のある集団がまとめてエッセネ派という名で言及されていたと考えられている。呼称の語源は不詳。ファリサイ派から発生したと考えられるが、俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより自らの宗教的清浄さを徹底しようとした点で、民衆の中で活動したファリサイ派とも一線を画している。
概説
起源として、セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスが任命した大祭司イェホシュア・ベン・シモン2世(ヤソン)の正統性に疑義を呈し、抗議したグループにさかのぼる点でファリサイ派とは同源、あるいはファリサイ派から生じたグループであると考えられている。以後、エッセネ派においてはヤソンとその後継者たちを正統な大祭司でないとして「悪の祭司」という称号で呼ぶことになる。しかし、誰が「悪の祭司」とよばれたのかについては異論もあり、ハスモン朝のサロメ・アレクサンドラの息子ヨハネ・ヒルカノス2世とローマ人の同盟者たちが「悪の祭司」であると考えるものもいる。どちらが「悪の祭司」であるにせよ、非正統祭司とその支持者の一党がサドカイ派と呼ばれるようになる。
また、エッセネ派は独自の称号を用いてある人物を呼んでいるが、たとえば「マティフ・ハ・キザ」(「偽りの説教師」)として言及するのはミシュナーにあらわれるイェシュー・ハ・ノツリなる人物であると考えられている。同じようにエッセネ派の呼び方を特定の人物に確定することは困難であるが、「イシュ・ハ・カザフ」(「偽りの人物」)としてはシメオン・ベン・シェター(紀元前80年 - 紀元前50年ごろ)、あるいは有名なシャンマイ(紀元前40年 - 紀元後20年)であると考えられる。
ラビ・シャンマイは当時のユダヤ教において指導的な地位を獲得するため、アブ・ベス・ディンとその後継者メナヘムを追い落としたと伝えられていることから、おそらくエッセネ派はメナヘムとヒッレルと並び称されたラビ・ヒルレルの支持者たちによって形成されたのであろう。シャンマイは高齢になっていたが、対抗していたラビ・ヒルレルの死後(紀元20年ごろ)、指導的地位を完全に掌握し、新たに18のユダヤ教法を採用した。これは後のユダヤ教において『出エジプト記』における「金の子牛」の鋳造にも比される出来事であると断罪されるに至る。
エッセネ派についての記録を残しているのはフラウィウス・ヨセフスとアレクサンドリアのフィロンである。ヨセフスは『ユダヤ戦記』第Ⅱ巻119~161にかけてエッセネ派について解説している。フィロンの記述もヨセフスとは若干の違いはあるものの大部分において共通している。それらの記録によるとエッセネ派においては共同生活が営まれ、入団資格の審査のための期間が設けられており、教団内で認められることで初めて教団の一員として迎え入れられたという。
長きにわたって死海文書の作成者と思われるクムラン教団はエッセネ派に属するグループあるいはエッセネ派そのものであると考えられてきたが、ノーマン・ゴルブ(Norman Golb)のように異議を呈する学者たちも存在している。
エッセネ派は思想的に第二神殿(エルサレム神殿)の権威を否定していたと思われる。とはいっても神殿の概念そのものを否定したかったわけではなく、自身の共同体を新しい神殿とみなしていたのであろう。エッセネ派はいずれ、自分たちがサドカイ派に勝利し、エルサレム神殿における主導権を掌握することができると考えていたようである。ユダヤ戦争の結果、70年にエルサレム神殿が崩壊し、神殿を権威の根拠としていたサドカイ派とシャンマイのグループは終焉を迎えたが、エッセネ派も期待した勝利を得ることができず、結局対立グループの消滅とともに自らのアイデンティティーを消失し、ヒルレルの影響を受けたファリサイ派のグループと合流していくことで歴史から姿を消すことになる。
神殿崩壊後のユダヤ教はファリサイ派の中でもヒルレルのグループが中心となって担っていくことになる。エッセネ派の持っていた「神殿によらずして神に仕えることができる」という発想はキリスト教の発生に影響を与え、神殿崩壊後のユダヤ教を支える思想的な基礎になった。
新約聖書には、ファリサイ派とサドカイ派はあらわれるが、それらとならんで当時の主要なグループであったエッセネ派が一切登場しないため、洗礼者ヨハネやイエス・キリストが、エッセネ派に属していた、あるいは関係グループに属していたという説もある。
参考文献
- ノーマン・ゴルブ著、前田啓子訳 『死海文書は誰が書いたか?』 ISBN 4881355910