ウーヴェ・ヨーンゾン

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ウーヴェ・ヨーンゾンUwe Johnson1934年7月20日 - 1984年2月23日)はドイツ作家社会主義の中で人間らしく生きられず、かといって資本主義に自由や正義を見出すこともできず居場所を見つけられない現代人の苦悩を描いた。

生涯

ヨーンゾンは1934年7月30日にフォアポンメルン地方の小都市カミーンで、畜産監督官の子として生まれた。 1944年にはナチズム教育を行う寄宿学校に入学するが、敗戦にともなってメクレンブルク地方のギュストローに移る。 1946年には保身のため ナチ党員になっていた父が ソ連軍の収容所で死亡しているが、ナチズムはヨーンゾンの成長にそれほど大きな影響は与えなかった。 むしろその後の 東ドイツにおける社会主義が彼の性格形成に大きな影響をおよぼしていくことになる。

1954年、ロストクの大学で学び始め、1956年にはエルンスト・バルラッハの『盗まれた月』を分析した論文を提出して卒業する。 しかし社会主義リアリズムを至上とする東ドイツでは表現主義の作品を扱った論文を書いたヨーンゾンを「市民的」として排斥し、卒業後も定職を得られなかった。 そのため彼は翻訳や編集など臨時の仕事で生計を立てている。このころ習作『イングリット・バーベンダーエルデ』を執筆しているが、完全版の発表は1985年になってからであった。

1959年には『ヤーコプに関する推測』を西ドイツのズーアカンプ社から発表し、フランクフルト書籍見本市で好評を博す。 同年西ベルリンに転居、本格的な執筆活動に入っている。

1960年、西ベルリンからフォンターネ賞を受け、翌年『三冊目のアヒム伝』を発表する。 1962年、ヴィラ=マッシモ奨学金を受けイタリアに滞在。 1964年には『カルシュとその他の散文』を発表。 1965年ハンガリー動乱に影響を受け、ベルリンの分断を題材とした『二つの風景』を発表する。 1966年ニューヨークに移住し、教科書編集顧問を務める。

1968年、には死の前年まで書き続けられるライフワーク『記念の日々 ゲジーネ・クレスパールの生活から』の執筆を開始する。 1974年テームズ河口のシェピ島にある港町シェアネスに転居するが、このころ妻が彼に対して東独のためにスパイ行為を働いたことが発覚し、苦悩する。 1979年フランクフルト・アム・マイン大学で詩学を講義し翌年『付随する問題』のタイトルで講義録が出版される。

1984年、シェアネスで心不全のため死去。

特徴

ヨーンゾンの作品の多くには居場所を得られない人間の疎外感・孤独感が漂っており、東西ベルリン、ニューヨーク、シェアネスと安住の地を求めて転居を繰り返した彼自身の人生を反映している。 彼はイデオロギーに起因する個人的諸問題を克服・解決しよう、または矛盾を糾弾しようとするのではなく、それ自体の姿で冷静にとらえることに重点をおいている。

それを象徴するエピソードとして、ヨーンゾン作品の片方の体制に帰結できない難解さを「彼は壁の向こう側にいるのでもこちら側にいるのでもない。壁の上にいるのだ」と玉虫色の評言を発した評論家について、「壁の上に立つなどということは現代において文字通り不可能なことだ。なぜならその人は壁の上に横たわっているはずだからだ。射殺されたのだから。」と皮肉交じりの論評を述べていることが挙げられる。