イエン・チリト
テンプレート:政治家 イエン・チリト(テンプレート:Lang-km / Ieng Thirith, 1932年3月10日 - )は、カンボジアの政治家。民主カンプチア政権で社会問題相を務めた。
クメール・ルージュの指導者の一員であると同時に、イエン・サリの妻。イエン・シリト、イエン・ティリトとも。
経歴
イエン・チリトは1932年、フランスの保護国カンボジア、裁判官の娘として生まれた[1]。姉は、後にポル・ポトの最初の妻となるキュー・ポナリー。イエン家は王族とも親しい上流中の上流階級であった[2]。
他のクメール・ルージュの指導者の多くと同じく高学歴で、当時のカンボジアの最高学府であるテンプレート:仮リンクを卒業し[3]、奨学金でパリに留学してシェークスピアを研究した[4]。夫イエン・サリとは国内の学生時代に婚約し、1951年夏にパリ15区役所で結婚している[5]。
帰国後は、自らカンボジア初の英語教育校であるクメール英国高校を設立し、校長として教師生活を送った[6]。しかし、1963年2月の暴動を機に左翼への弾圧が強化されると、夫イエン・サリは地下に潜り、1965年にはチリトも後を追った[7]。
右派ロン・ノル政権との内戦中、1973年12月3日にカンプチア王国民族連合政府人民教育・青年相に任命される[8]。
1976年4月14日に民主カンプチア政権が樹立されると、ポル・ポト内閣の社会問題相に就任し[9]、政権運営に深く関与した。このため、当政権による大量虐殺に責任を負うことになる。
2007年11月12日、夫と共にプノンペン南部の自宅で逮捕され、カンボジア特別法廷において刑事責任が問われることとなった[10]。しかし2012年9月13日、認知症のために「訴訟能力がない」として、訴追せず身柄を釈放された[11]。
脚注
- ↑ 山田(2004年)、17ページ。
- ↑ 姉妹の父は、シハヌーク国王の祖父母の家族と親しく、のちに王女の一人と出奔した。山田(2004年)、17ページ。
- ↑ 山田(2004年)、18-19ページ。
- ↑ 山田(2004年)、91-92ページ。
- ↑ チャンドラー(1994年)、62-63ページ。
- ↑ 山田(2004年)、26ページ、201ページ。
- ↑ 山田(2004年)、30ページ、200ページ。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 山田(2004年)、98ページ。
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite news