アルフレート・ヴェーバー

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アルフレート・ヴェーバー (Alfred Weber1868年7月30日 エアフルト - 1958年5月2日 ハイデルベルク)は、ドイツ社会学者並びに経済学者であり、マックス・ヴェーバーの弟である。日本では慣習的にアルフレッド・ウェーバーのように英語風にも読まれる。 

経歴

兄のマックス・ヴェーバーと同様に、アルフレート・ヴェーバーも経済学を修め、1909年に経済学の位置論への重要な貢献を行った。その後、当時まだ新しい学問だった社会学の研究に邁進、文化社会学を確立した。1904年より1907年にかけてプラハ大学の教授職、後ハイデルベルク大学に就任した。しかしナチス期中(1933年 - 1945年)には退職に追い込まれ、戦後に再度ハイデルベルク大学に復帰。1954年のドイツ連邦大統領選挙の際ではドイツ共産党から(本人の同意なしに)候補者に推されている。

経済学的位置論

歴史文化学文化社会学歴史哲学の後継者である。歴史哲学は18世紀から19世紀の初頭にかけて、コンドルセヘルダーシラーヘーゲルらによって普遍史(Universalgeschichte)の一つの有力な意味解釈として導入された。歴史・文化社会学は、サン・シモンの業績の継承のなかから、オーギュスト・コントによって樹立された。

歴史・文化社会学は未来を予測・期待するものではない。そのような意味で歴史に解釈を投入するのではなく、歴史的な諸事実をそのまま語ることに取り組もうとする。それは歴史的な過程の層の連なり(Stufenfolge)を経験的に読みとろうとするのである。例えば、カール・マルクスを一方とし、ハーバート・スペンサーK・ランプレヒトを他方とするような立場は、現象を通して歴史についての様々な解釈を先行して生み出していたが、彼らの経験的な方法にもかかわらず純粋に実証的であるということはできなかった。マルクスは(彼は少なくとも自分の方法を明確に提示することができなかったのだが)、歴史の弁証法的過程のアプリオリな認識から彼の解釈を引き出したわけではない。マルクスに影響を受けた他のすべての人々は、あらゆる場合の分析の背景に、特定の価値判断を置いていた。

これらすべての萌芽的な歴史・文化社会学は19世紀後半に信頼を失った。その理由は、確固とした基盤に立っていなかったということよりもむしろ、歴史的な過程の多様性を全般的に理解するにはあまりにも単純過ぎ、また不十分なものであると思われたからである。

これら古いタイプの歴史・文化社会学への批判を踏まえて社会学の方面から再度の発展がみられた。無時間的な社会学的構造分析の補完物としてだけ歴史的過程を扱うのではなく、歴史的な概観分析(Gschichtliche Querschnittanalysen)を行おうとするものである。その優れた代表例はジンメル形式社会学である。第二に成立したのは、デュルケーム学派の行ったような社会学的な対象の時代・地域関連分析である。その最高の例が、レヴィ=ブリュールの未開人研究である。これらの研究様式は社会学においてよりも、先史時代や民俗誌の研究においてより多くの実りをもたらしたし、影響を与えてきた。また、以上に隣接して社会心理学が成立した。社会心理学は、一方では社会の行動主義となり(ヴィーゼ)、また他方では社会誌(Soziographie)と結びつくことで、統計的・経験的研究となった(とりわけアメリカの場合)。以上の諸研究の他にも、社会の個別領域の研究(政治社会学法社会学他)や、特殊な社会学的概観の枠組み(芸術社会学音楽社会学知識社会学他)、さらに個別的な社会学的因果系列の探求(マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』や、普遍史的な関連性を扱ったものとしては、彼の宗教社会学)が行われた。大変広範囲にわたる分析の展開の結果、当然ながら、社会学とは本来何なのかという問いが浮上してきた。

しかしながら、歴史の全過程を経験的に認識しようとする考え方は消滅したわけではなく、20世紀の冒頭に再び盛んになった。その背景には、当時実際に歴史的な大転換に差しかかっているという認識があったのだろう。それ以来歴史の全過程を認識できるのかということが方法論研究の問題となった。実質的にこの研究に参加していたのはE・トレルチO・ヒンツェであった。ただし彼らとは別に、シュペングラーによる歴史全過程を通覧する構想も成立していた。しかしシュペングラーの著作は独創的ではあるが、経験科学的に完全に基礎づけられているとはいいがたい。科学的な歴史・文化社会学の限界と可能性を現実的に明らかにしなければならないという方法論上の必要性が生じてくることになった。方法論的基礎付けの必要はA・トインビーの第一級の歴史的業績である『歴史の研究』にもいえる。というのもこの研究はシュペングラーの「文化形態学的」循環論に依存しているからである。

歴史・文化社会学を科学的検証に耐えうるものとして構想しようとするならば、以下のような条件を満たしておかなければならない。すなわち歴史・文化社会学は歴史の構造論でなければならない。歴史の構造論は社会学として歴史の内的な構造過程(innerer Strukturverlauf der Geschichte)を経験的に明らかにする。それは構造過程が持っている一般的な諸傾向を明確にする意図を持ち、またそのことによってこの構造論は外的な構造過程(auァerer Strukturverlauf)と結びつけられる。なお外的な構造過程もまた同じように一般的な諸傾向を問う。そしてこれらは歴史的・社会学的な全体的観点に媒介され、そこでは内的な構造化が外的な構造化とダイナミックに結びつくのである。

歴史の内的な構造組織(innere Strukturgliederung)をいかにして論じるのかということを問うならば、歴史的過程と文明化の過程と文化運動とを互いに影響を与えあっていながら、思考の上では分離し、現実には合体した諸領域として論じなければならない。以上のことに言い添えるならば、

文化運動としての「世界化(Universalisierungen)」というのもまた、文明化の過程だけに伴っているのではなくて、それぞれの新たな諸層(意識の諸層、学問的な探求の諸層、技術の諸層)の精神的な結びつきの枠内で、それ自体自動的な一つの論理的な進歩として可能なのであり、それは地球全体に拡大していくのである。しかしそれぞれの文化的な世界化は論理的に論証できるようなものではない。その理由はそれらがとりわけ多様な超越論的宗教や社会宗教(Transzendental- und Sozialreligionen)に向かっていくからである。文化的な世界化はむしろはるかに精神的な妥当性の拡大であり、これは論理的に基礎づけたり、基礎づけを求めることはできないのである。文明的な世界化というのは、これに対して論理的な正確さの拡大、もしくは論理的に認識できる有用なことの拡大であり、その正しさを否定できないものである。

それぞれの文化時代(Kulturperiode)は、一つの新しい「生の結晶(Lebensaggregierung)」の精神的浸透である。それを前にして人間はある時間・ある場所に位置づけられるのであり、そのような存在様態に基づいて、悪名高い生の離反にむかうのである。それぞれの「生の結晶」は、これを人が貫徹しようとする場合にも、あるいは非難する場合にも、(いわゆる「第一の文化(Primaerkulturen)」と呼ばれているものですら)常にそれ自身として文明的で社会構造的な形態に依存しているだけではなくて、すべてにわたってもしくは部分的にはすでに早い時代の文化によって積極的に形成されたか、もしくは消極的にでき上がってきた生の結晶にも依存しているのである。以上のようにそれぞれの新たな時代の「文化の革新」だけは、それに対応する生の結晶がすでに文化的に形成した限りにおいて引き起こされるのである。

歴史の外的な構造化は、内的な構造化といっしょになってはじめて具体的な構造として現われてくる。実際の社会学の研究では、社会学以外の政治史的な歴史考察がもっぱら中心課題としてきた大小の社会諸集団の継続的競合関係や、闘争関係を把握しなければならない。以上のような歴史上の競合関係や戦争の終始の全体は、社会学にとっては皮相な問題でしかない。社会学は何らかの方法によって外的な構造から引き出された一般的に妥当しうる理論を提出しようとするのであり、大きな歴史的行為を規定する具体的な意志の刺激(konkrete Willensimpulse)を問うのである。また社会学は意志の推進力を規定する一般的な諸要因について、一般的に論じようとするのである。そしてそれにともなって、社会学は人間が活動している地上の生命圏(der vitale Erdrahmen)を、外的な構造として一般化するのである。このことは換言するならば人間と大地(Erde)の関連性ということができる。

以上のことから以下の結論が引き出される。人間と大地の関係性という観点の下では、紀元前4000年から3600年ごろの高度文化の成立以来、三つの異なった時代が存在した。第一は大変に長い時代であり、互いに連関しあう普遍史がまだユーラシア大陸に限定されていた時代である。この時代は数千年にわたる人口の圧迫の背景となっており、中近東地域やアラビアの枯渇によって、これらの地域からの継続的な人口の移動の波がこの時代の歴史を構造化している。地中海から黄河にいたるまでの肥沃な地域は、この人口の波によって満たされた。これらの地域では農耕によって幾層にもわたって歴史体が形作られてきた。

それから第二の時代は拡大し技術を積み重ねていく西洋が中心となった1500/1600年以来の大開墾時代である。この時代は1880年以来飽和時代に入り、それ以前からの西洋の人口拡大、植民地支配の拡大、ヨーロッパ中心の世界経済の発展によって、もはやそれまでの時代に覆いかぶさった層としてではなく、根底からの構造転換をもたらした。人間と大地の関係性の変化は、歴史の外的構造化の諸要素を決定する。ヨーロッパの諸国家間の競合関係は、地上を征服しようとする指向と結びつき、最終的には帝国主義的な地上再分割闘争へと向かうことになった。こうして第一の時代の層は、外的形成要因として消滅していった。そして内的な構造変化から生じてきた布置連関は、世界史的な外的構造化にとって決定的な意義をもっている。すなわちアメリカ合衆国の独立と建国、フランス革命によるフランスの拡大と、それが同国に与えた国民的な影響(国民国家としてのフランスの成立)である。

歴史の外的な構造化からなる第三の時代への移り行きは、まさにわれわれがその始まりに立ち会っているものである。縮小した大地の上で支配や共同体による世界史的な連関を産み出していくこの時代は、次のようなことに特徴づけられる。すなわち継続的でより強化された歴史の外的構造の形成における内的構造の布置連関の出現である。二つの互いに対立しあう内的構造システムが、大地の支配をめぐる地球規模での闘争において対峙しあっており、外的歴史までも構造化しつつある。

内的構造と外的構造によって構成された歴史・文化社会学研究では、両方の側面が常に相互浸透し、今日この相互浸透が外に向かって及ぼしている影響を示しているため、実際のところ以下の課題を担わなければならなくなっている。すなわちそれは一般的な入れ物を構想し、今日発展しつつある概観的社会学(Querschnittsoziologie)や個別社会学のすべてに共通の基盤を、その中に見つけだすことである。「社会学」と呼ばれている今日の概観的な議論の多くは、子細にみるならば、社会研究(Gesellschaftslehre)において、それぞれの研究の段階に応じて社会過程の概観分析を行おうとしている。それらは、たとえ現に分析される社会が、それぞれの文明的な層や文化形態に該当する一般的な歴史状況の結果であるとしても、特定の要素について社会過程のすべての観点から観察する。これまで歴史・文化社会学は狭義の意味での社会学の任務を果たしていないように思われる。またそれ以外の専門社会学は、歴史的構造もしくは特殊な因果結合からなる特定の領域を研究しているが、それぞれの個別社会学としての位置づけは不明のままである。ここでは以下のことを確認しようとするにとどめる。すなわち今日の科学的社会学全体の組織に何らかの明確さを与えることである。

著書

  • Über den Standort der Industrie: Reine Theorie des Standorts (1909年)
  • Industrielle Standortlehre (1914年)
  • Religion und Kultur (1924年)
  • Die Krise des modernen Staatsgedankens in Europa (1925年)
  • Ideen zur Staats- und Kultursoziologie (1927年)
  • Kulturgeschichte als Kultursoziologie (1935年)
  • Das Tragische und die Geschichte (1943年)
  • Farewell to European history ... (1947年)
  • Der dritte oder vierte Mensch. Vom Sinn des geschichtlichen Daseins (1953年)
  • Einführung in die Soziologie (1955年)

関連文献

  • Nicolaus Sombart: Rendevous mit dem Weltgeist. S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main, ISBN 3-10-074422-5, 内 Zweiter Teil, Kapitel "Alfred Weber"