ハーバート・スペンサー
ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer, 1820年4月27日 - 1903年12月8日)は、イギリスの哲学者、社会学者、倫理学者。
略歴
1820年、イングランド、ダービーの非英国国教会(非国教徒)の家庭に生まれる。教師であった父の方針で学校教育を受けず、父と叔父を教師として、家庭で教育を受けた。16歳でロンドン・バーミンガム鉄道の鉄道技師として働き始め、空いた時間に著作活動を行なった。1843年には経済誌『エコノミスト』誌の副編集長となった。
1853年以降は公職に就かず、在野の研究者として著述に専念。著作が広く読まれるにつれ名声を得た。駐英公使をつとめていた森有礼にも大きな影響を与えたといわれる。
思想・研究
スペンサーは1852年に『発達仮説』(The Developmental Hypothesis) を、1855年に『心理学原理』を出版した。それから『社会学原理』『倫理学原理』を含む『綜合哲学体系』を35年かけて完成させるなど、多くの著作を出版した。
社会進化論
これらの著作はかれの進化 (evolution) という着想に貫かれている。社会進化論という概念はこれらの著作から発している。彼の著作『第一原理』は現実世界の全ての領野に通底する進化論的原理の詳しい説明である。
ポピュラーな用語「進化」と共に「適者生存 (survival of the fittest) 」という言葉はダーウィンではなく、スペンサーの造語である。
スペンサーの社会学
スペンサーは、オーギュスト・コントの実証主義と社会学思想に大きな影響を受け、社会学の創始者の一人としても有名である。スペンサーの社会学では、有機体のメタファーを用いて社会を「システム」として把握し、これを、維持、分配、規制の各システムに分かち、社会システムの「構造と機能」を分析上の中心概念とする。そのため、社会有機体説と呼ばれる。この点で、現代社会学における構造機能主義の先駆とされる。
日本におけるスペンサーの受容
1880~90年代の明治期日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、「スペンサーの時代」と呼ばれるほどであった。たとえば、1860年の『教育論』は、尺振八の訳で1880年に『斯氏教育論』と題して刊行され、「スペンサーの教育論」として広く人口に膾炙した。その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた。 しかし、スペンサーからみると、封建制をようやく脱した程度の当時の日本は、憲法を持つなど急速な近代化は背伸びのしすぎであると考え、森有礼のあっせんで、1883年に板垣退助と会見した時も、彼の自由民権的な発言を空理空論ととらえ、けんか別れをしたといわれる。 このようなことがあったにもかかわらず、1886年には浜野定四郎らの訳により『政法哲学』が出版されるほど、日本でスペンサーの考えは浸透していた。
著作
- 『総合哲学体系』System of Synthetic Philosophy (1860年)
- 『社会静学』Social Statics (1851年)
- 『教育論』Education (1861年)
- 『人間対国家』The Man Versus the State (1884年)
- 『自伝』Autobiography (1904年)
参考文献
- 山下重一『スペンサーと日本近代』(御茶の水書房, 1983年)
- 八木鉄男/深田三徳 編著『法をめぐる人と思想』(株式会社ミネルヴァ書房,1991年)(79頁~94頁「6 スペンサーの『社会静学』と自然権論」深田三徳)
- 挾本佳代『社会システム論と自然――スペンサー社会学の現代性』(法政大学出版局, 2000年)