アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)
テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート(テンプレート:Lang-en, 1819年8月26日 - 1861年12月14日)は、イギリスのヴィクトリア女王の夫。ザクセン=コーブルク=ゴータ公子でザクセンの公(Herzog zu Sachsen)。ドイツ語名はアルブレヒト(Albrecht)。
イギリス女王の夫として、議会から唯一公式に「プリンス・コンソート」(The Prince Consort)の称号を認められた人物である。
生涯
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公エルンスト(後のザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世)の次男としてコーブルクに生まれる。母はザクセン=ゴータ=アルテンブルク公アウグストの娘で、エルンストの従妹のルイーゼ。
ヴィクトリアとの結婚
同い年の従姉ヴィクトリアとの結婚を積極的に推進したのは、双方の叔父に当たるベルギー初代国王レオポルド1世であった。1836年5月、アルブレヒトは家族とともにロンドンを訪問し、ケンジントン宮殿でケント公エドワード・オーガスタスの娘であるヴィクトリア王女と対面した。しかし、ヴィクトリアの伯父である当時の国王ウィリアム4世は、この縁組に賛成せず、ヴィクトリアの相手としてオランダ王ウィレム2世の息子であるオラニエ=ナッサウ家のウィレム・アレクサンダー王子を考えていた。一方、ヴィクトリアはレオポルド1世の計画を知っていたが、自身はアルブレヒトとの結婚を望んでいた。ヴィクトリアは、金髪に青い瞳をしたハンサムなアルブレヒトに一目惚れしたのである。ヴィクトリアがレオポルド1世に宛てて、アルブレヒトを紹介してくれた礼を述べる書簡が残っている。
1837年、ヴィクトリアはイギリス女王に即位した。1839年、アルブレヒトは兄エルンスト(後のエルンスト2世)とともに、再びロンドンを訪問した。この訪問の目的は二人の結婚にあった。同年10月に2人は正式に婚約し、翌1840年2月10日、セント・ジェームズ宮殿の王家礼拝堂(Chapel Royal)で結婚式を挙げた。
当時王家がドイツ系の血筋であったことから、イギリス系の血を濃くするため、イギリス人の夫が望まれた。そのため、女王がドイツ系のアルブレヒトと結婚することは、イギリス国民からあまり歓迎されていなかったようである[1]。アルバートは、出産と育児に追われる女王に代わり、公式行事の出席などもこなし、実質上は君主の役割を果たした。しかし、イギリスでの公的地位は、結婚17年後に「王配殿下」(プリンス・コンソート)の地位が正式に与えられるまで、何1つ持っていなかった。
家族
アルバートの父エルンスト1世は、根っからの女好きで、母のルイーゼを裏切り続けていた。そのため、ルイーゼ自身も傭兵隊長のアレクサンダー・フォン・ハンシュタインと浮気をするようになり、エルンストから離婚を言い渡された[2]。これによりルイーゼは、自身の息子であるエルンスト2世とアルバートに会うことも禁じられた。こうした不幸な家庭環境により、アルバートは両親を反面教師として、大変に誠実な夫となった。
アルバートとヴィクトリアの夫婦仲は非常に良く、多くの子供達に恵まれた。二人の間に生まれた子女は下記の通り。
- ヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ(ドイツ皇帝フリードリヒ3世皇后)
- アルバート・エドワード(王太子、後のエドワード7世)
- アリス・モード・メアリ(ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃)
- アルフレッド・アーネスト・アルバート(エディンバラ公、後にザクセン=コーブルク=ゴータ公を継承)
- ヘレナ・オーガスタ・ヴィクトリア(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子夫人)
- ルイーズ・キャロライン・アルバータ(アーガイル公爵夫人)
- アーサー・ウィリアム・パトリック(コノート公)
- レオポルド・ジョージ・ダンカン・アルバート(オールバニ公)
- ベアトリス・メアリ・ヴィクトリア・フィオドア(バッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツ妃)
長女のヴィクトリアがアルバートによく似て、申し分のない優等生だったのに比べ、長男のアルバート・エドワード(後のエドワード7世)は大変な問題児であったため、アルバートはいつもこの息子のことに頭を悩ませていた。ただ、エドワードが問題児となったのは、アルバートの厳しいしつけも関係していたようである。エドワードは、自分の子供達には、自分が父にされたのと同じような厳しいしつけをしようとはしなかった。
王室の改革
1841年にアルバートは、ヴィクトリアの教育係でヴィクトリアが母親同然に思っていたルイーズ・レーツェンの仕事ぶりに問題を感じたため、彼女の解任を考えるようになった。レーツェンは当時ヴィクトリアの秘書も務めており、王室の予算も諸々の人事権も握っていた。最初ヴィクトリアはレーツェンの解任に猛反対したが、アルバートに説得されて、ついにレーツェンの解任に同意した。こうしてアルバートはようやく実権を握ったが、イギリス王室は大変な無秩序状態になっていた。その理由はレーツェンが他人の言いなりで、また年をとるにつれて全体への配慮が行き届かなくなっていたからだった。
当時のイギリス王室では、個々人が目先の利益ばかりを考え、好き勝手なふるまいをしていた。例えばウィンザー城では、内側と外側の窓をそれぞれ別の部署が管理する、ということが平気で行なわれていた。さらに、この2つの部署は激しい縄張り争いを展開し、互いに相手の管轄へと踏み込んでいた。また、王族の人々が全員外出中のときでさえ、城ではたっぷりと食事を用意するのが習わしで、結局豪華な食事は召使達の胃袋に消えることとなった。さらに、ろうそくが使われていようがいまいが、全ての部屋のろうそくは毎日かかさず交換された。そして、18世紀後半、気前のいいジョージ3世が、赤の間と呼ばれる部屋に衛兵室を設け、当直中の衛兵にフランス産の赤ワインを毎日1本ずつふるまった、ということに端を発した「赤の間のワイン代」というものがあったが、ジョージ3世もこの世を去って既に久しく、衛兵室の存在もとうに人々から忘れ去られていたが、それでもワインだけは相変わらず大量に消費されていた。
アルバートは、このような数々の無駄遣いや、召使たちの無秩序ぶりを見て、いかにもドイツ人らしい徹底した方法で、王室全体を改革することにした。彼は職員の大半を入れ替え、王室の部署を大幅に削減した。そのため、改革前から勤めていた者も新しく入った者も、真剣に働かざるを得なくなった。当然、アルバートに彼らの憎悪や反発が向けられた。特に彼らの最大の不満は、職員が副業にしていた格好の収入源を、アルバートが潰してしまったことだった。彼らの多くは、王室の情報を新聞社に流して、いい収入を得ていた。しかし、アルバートが王室での出来事を掲載した公報を毎日発行するようになったため、これも不可能になった。また用具類に関しても、帳簿を付けさせてしっかり管理させた。
アルバートによるこうした数々の改革によって王室内部の混乱が一掃されたおかげで、王室費は全体として2万5,000ポンドもの節減になった。アルバートには優れた財政の才能があった。彼はこの他にもコーンウォール公領とランカスター公領からの収入を、わずか1年の間に大幅に増加させている。しかし、数々の成功にも関わらず、アルバートは「けちな男」や「金に細かい男」などと悪口を言われるようになってしまった。増えた分の収入は、田舎に別邸を建てるなど、アルバートによって有効に使われた。やがて彼はワイト島に広大な土地を購入し、オズボーン・ハウスを建て、毎年家族と過ごすようになった。
政治への関与
アルバートは、1841年に長男のエドワードが生まれた前後から、枢密院のメンバーに加わり、ヴィクトリアの秘書や顧問を務めた。かつて首相を務めたメルバーン子爵は、早くからアルバートの非凡な才能を見抜き、ヴィクトリアに対し「アルバート公は実に頭の切れるお方です。どうかアルバート公のおっしゃることをよくお聞きなさいますように」と進言したという。1834年に首相になったロバート・ピールも、頭脳明晰なアルバートに接近し、微妙な問題が起きるとまず彼に意見を求めるようになった。ヴィクトリアには気まぐれで短気な所があったため、後回しにしたのだった。
アルバートは1851年にはロンドン万国博覧会を大成功させた。この万博の最大の呼び物は「クリスタル・パレス(水晶宮)」と名付けられた、鉄とガラスでできた宮殿だった。彼はこの万博開催においては中心になって準備を進めており、最大の出資者も彼だった。700万人がこの万博を訪れ、収益は経費の倍以上にのぼった。新聞各紙もこの万博の成果を絶賛し、アルバートがイギリス国民の人気を集めたのは、後にも先にもこの時だけだったという。
晩年
1861年11月のある日、アルバートにとって衝撃的な事件が起きた。外国の大衆紙に、エドワードと女優のネリー・クリフデンとの交際が掲載されたのである。2人の仲を言いふらしたのも彼女だった。アルバートは病身にも関わらず、エドワードの住むケンブリッジへと向かった。2人の間で何が話し合われたのかは明らかではない。
アルバートは結婚から21年後の1861年12月14日、42歳で腸チフスで亡くなった。しかし、持病の胃痛などの症状とアルバートの母親も30歳で癌に倒れていた事を見れば、彼はもともと胃癌であった可能性が高いと言われる。
ヴィクトリアはアルバートの死を深く嘆き悲しみ、彼の死後は二度と豪華な衣装を着ることなく、自身が亡くなるまでの39年間を黒い喪服だけで過ごしたという。
称号と敬称
- (公爵家の尊い)ザクセン公爵アルバート・オブ・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公子殿下(His Ducal Serene Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Saalfield, Duke of Saxony):1819年8月26日 - 1826年11月12日
- (公爵家の尊い)ザクセン公爵アルバート・オブ・ザクセン=コーブルク=ゴータ公子殿下(His Ducal Serene Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha, Duke of Saxony):1826年11月12日 - 1840年2月6日
- (王家の)ザクセン公爵アルバート・オブ・ザクセン=コーブルク=ゴータ公子殿下(His Royal Highness Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha, Duke of Saxony):1840年2月6日 - 1861年12月14日
- (王家の)王配殿下(His Royal Highness The Prince Consort):1857年 6月29日 - 1861年 12月14日
- 王配の称号は1840年2月から非公式に使用されていた。
知名度
アルバート公は短命だったためか、現在のイギリスにおいて知名度は低く、その名前を知らない国民も多い。そのため、歴代国王の銅像が夫婦で置かれている博物館でさえ、ヴィクトリア女王のみの展示となっている。
外国から授与された勲章
国名は五十音順。()内の年代は授与された年[3]。
- ヴュルテンベルク王国:王冠勲章(1843年)
- オーストリア帝国:聖シュテファン勲章(1843年)
- オランダ王国:ネーデルラント獅子勲章(1842年)
- ザクセン王国:嘆きの王冠勲章
- ザクセン=ヴァイマル大公国:白鷹勲章
- ザクセン=コーブルク公国:ザクセン・エルンスト勲章(1838年)
- サルデーニャ王国:受胎告知勲章(1842/43年?)
- 両シチリア王国:聖フェルナンドおよび功労勲章(1846年)
- スウェーデン王国:熾天使勲章(1856年)
- スペイン王国:金羊毛勲章(1841年)
- デンマーク王国:象勲章(1843年)
- オスマン帝国:メディジ勲章(1856年)
- バーデン大公国:バーデン忠誠勲章、ツェーリンゲン獅子勲章
- バイエルン王国:聖フベルト勲章(1845年)
- ハノーファー王国:聖ゲオルク勲章
- フランス王国:レジオンドヌール勲章(1843年)
- プロイセン王国:黒鷲勲章(1842年)、赤鷲勲章(1842年)
- ベルギー王国:レオポルド勲章(1839年)
- ポルトガル王国:キリスト・聖ディエーゴ・聖ベネディクト三重勲章(1857年)
- ロシア帝国:聖アンドレーイ勲章(1843年)、聖アレクサンドル・ネーヴスキ勲章、聖アンナ勲章(1843年)、白鷲勲章(1843年)、聖スタニスラフ勲章(1843年)
脚注
関連項目
- プリンス・アルバート - カナダ・サスカチュワン州の都市。
- 性器ピアス - 性器ピアスの一種に「プリンス・アルバート」がある。
- フロックコート - アメリカ合衆国ではプリンス・アルバート・コート(Prince Albert coat)とも呼ばれている。
- アルバートヘルメット - イギリス軍に採用されたドイツ風のヘルメット。同様に、従来のフランス風からドイツ風に改訂されたイギリス軍のシャコー帽はアルバートシャコーと呼ばれていた。
- ↑ ハノーヴァー朝の国王は全て、王族もほとんどがドイツ人の妃を娶っており、ヴィクトリアの母ヴィクトリアも、父方の祖母シャーロットもドイツ人であった。これは、当時のイギリス王家であったハノーヴァー家では(後にサクス=コバーグ=ゴータ家でも)、貴賎結婚が許されていなかったからである。また、イギリス王族は現在でも王位継承法により、カトリック教徒と結婚すれば王位継承権を喪失する。そのため王族の結婚相手は、王位継承法の制約によりプロテスタントであることが求められた。また、ハノーヴァー家の家法により、結婚相手は、王家または公家の殿下の称を有する人物に限られていた。
- ↑ 後にルイーゼは、アレクサンダーと再婚している。
- ↑ 君塚直隆『女王陛下のブルーリボン-ガーター勲章とイギリス外交-』NTT出版、2004年。ISBN 4-7571-4073-8。