アリエノール・ダキテーヌ
アリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d'Aquitaine, 1122年 - 1204年4月1日)は、アキテーヌ公ギヨーム10世の娘でアキテーヌ女公。トルバドゥールで知られるギヨーム9世は祖父。自身もベルナール・ド・ヴァンタドゥールら吟遊詩人を庇護して多くの文芸作品を誕生させ、洗練された宮廷文化をフランス、イングランドに広めた存在として知られる。はじめフランス王ルイ7世の王妃、次いでイングランド王ヘンリー2世の王妃。クレティアン・ド・トロワのパトロネスとして知られるマリー・ド・シャンパーニュ、イングランド王リチャード1世、ジョンらの母。中世盛期の西欧における最強・最富な女性の一人であった。
Aliénor(アリエノール)は南フランスのオック語の名前で、オイル語(フランス語)でEléanor d'Aquitaine(エレアノール・ダキテーヌ)とも呼ばれる。英語ではEleanor of Aquitaine(エレノア・オブ・アクイテインまたはエリナー・オブ・アクイテインなどと表記される)と呼ばれる。
生涯
フランス王妃としての前半生
アキテーヌは宮廷愛やトルバドゥールで知られる南仏文化の中心地で、アリエノールはその雰囲気を十分に受け、音楽、文学、ラテン語と当時としては高い教育を受けて育った。弟ギヨームが1130年に早世したため、アリエノールはアキテーヌ公領、ガスコーニュ公領、ポワチエ伯領など、フランス全土の3分の1近くを支配する大領主の女相続人となった。1137年、父ギヨーム10世が旅先で急死し、遺言によりアリエノールの後見はフランス王ルイ6世に託された。ルイ6世は息子のルイ7世とアリエノールをただちに結婚させたのち死去、父の死から4ヶ月足らず、アリエノールは15歳でフランス王妃となった。2人の間にはマリー、アリックスの娘2人が生まれたが男子には恵まれなかった。
1147年の第2回十字軍に、アリエノールはアキテーヌ軍を引き連れ、夫ルイ7世と共に参加した。しかし、フランス軍が小アジアでセルジューク朝軍に惨敗した時、アリエノールが危険な場所で休息したがった為だと非難された。アンティオキアに入り、アリエノールが叔父のアンティオキア公レーモンを支援し、エデッサ伯領を奪回することを主張したのに対し、ルイ7世はこれに反対し、妃を拘束して、エルサレムに向かった。レーモンは戦死し、さらにダマスカスへの攻撃も失敗に終わって、2人はフランスに帰国した。1152年3月21日に近親婚であるとして婚姻の無効が成立、離婚した。
イングランド王妃としての後半生
離婚のわずか2ヶ月後に、アリエノールは11歳年下のアンジュー伯・ノルマンディー公アンリと再婚する。ルイ7世とは近親婚を理由に離婚したが、アンリはルイよりも近い血縁関係にあった。後にアンリがイングランド王を継承してヘンリー2世となると、フランス国土の半分以上がイングランド領となってしまう。アリエノールのしっぺ返しだった。その後14年間に息子5人と娘3人を産み、夫と共に領土を統治しアンジュー帝国の拡大に務めるが、やがてヘンリー2世に愛妾ロザモンド(1150年以前 - 1176年)(en)ができると、1168年には自らアキテーヌへと戻り、別居する。ポワチエのアリエノールの城では吟遊詩人や騎士らが集い、ヘンリー2世との間の息子とその妃や婚約者、幼い娘達、さらに前夫ルイ7世との間の娘のマリーも訪れるようになり、君主や貴族の訪問も受け、華やかな宮廷文化が開花した。
1173年、ヘンリー2世の名目上の共同統治者となっていた次男の若ヘンリー王がルイ7世の庇護のもと、父の独裁に対して反乱をおこすと、アリエノールは自分の宮廷にいた下の2人の息子、リチャードとジェフリーをただちに兄のもとに向かわせ、さらには自分もこれに加わろうとした。しかしヘンリー2世に捕えられ、以降15年にわたってイングランドのソールズベリーに監禁された。1183年に若ヘンリーが死去すると、リチャードを後継者とするかわりにアキテーヌを末子のジョンに与えようとしたヘンリー2世の意思と対立、1169年にルイ7世(1180年に死去)の臨席のもと取り決められた大陸領土の分与は遵守されるべきと主張してリチャードを支持した。1189年のヘンリー2世の死去、及びリチャード1世の即位と同時に解放され、息子が第3回十字軍を率いて遠征すると、摂政としてアンジュー帝国を統治した。
1204年、80歳を超える当時としては稀な長寿を全うし、末子のジョンがイングランド王の時、隠棲先のフォントヴロー修道院で死去。
人物
- 南仏アキテーヌの女領主として育ったアリエノールは、修道院育ちの最初の夫ルイ7世とは性格的に合わなかったようで、離婚した際にルイのことを「王と結婚したと思ったら、僧侶だった」と言ったといわれる。
- 息子若ヘンリーが病死した際、監禁先に知らせにきたウェールズの司教にアリエノールは、数日来みた夢から解っていたと告げたという。
- 若ヘンリー亡き後、息子の中ではリチャード1世(獅子心王)が最も母の愛を受けた。リチャードのロマンティシズムは母親譲りといわれている。
- 当時の年代記作者は、十数年に及んだ監禁生活を経てなおも衰えずに行動した老年のアリエノールについて「比類なき女性。美しいが慎み深く、権力を持つが謙虚で、控え目だが雄弁。かくの如き女性は大変まれである」と記している。
- 彼女自身とカスティーリャ王国に嫁いだ同名の娘エレノアが多産だったことで、政略結婚によりアリエノールの血筋はヨーロッパ各国に広がり、後世に「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるようになった。
子女
最初の夫ルイ7世との間に2女を儲けた。
2度目の夫ヘンリー2世との間には5男3女の8人の子を儲けた。
- ウィリアム(1153年 - 1156年) - ポワチエ伯
- ヘンリー(1155年 - 1183年) - 1170年から1183年までイングランド王(父王と共治)
- マチルダ(1156年 - 1189年) - ザクセン公兼バイエルン公ハインリヒ獅子公妃
- リチャード(1157年 - 1199年) - イングランド王リチャード1世(獅子心王)
- ジェフリー(1158年 - 1186年) - ブルターニュ公ジョフロワ2世
- エレノア(1162年 - 1214年) - カスティーリャ王アルフォンソ8世の王妃
- ジョーン(1165年 - 1199年) - シチリア王グリエルモ2世の王妃、後にトゥールーズ伯レーモン6世の妃
- ジョン(1167年 - 1216年) - イングランド王(欠地王)
参考文献
関連項目
- ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)
- ブリテンのトマ
- マリー・ド・フランス (詩人)
- 『冬のライオン』 - アメリカの舞台演劇。1968年の映画版ではキャサリン・ヘプバーンが、2003年のテレビ版ではグレン・クロースが、エレノアを演じた。
- 『誇り高き王妃』 - E・L・カニグズバーグ著、1973年。日本語訳は『ジョコンダ夫人の肖像』に収録。
- 『花巡礼』 - 少女漫画。河惣益巳著、 白泉社、1997年 - 1998年。アリエノールに仕えた女性とその娘、孫娘の3代の目を通して、彼女の生涯を辿っている。
- ロビン・フッド
|
|
|
|
|