アウクスブルクの和議
アウクスブルクの和議(ドイツ語:Augsburger Reichs- und Religionsfrieden)とは、神聖ローマ帝国のアウクスブルクで開催された帝国議会において1555年9月25日になされた、ドイツにおけるルター派(プロテスタント)容認の決議である。アウクスブルクの宗教和議ともいう。
これによりハプスブルク家のカトリック教会を介した帝国支配の野望は挫折するが、一方ではカルヴァン派の信仰は認められず、また個人の信仰も認められずに信仰の選択は都市や領主が決定するものとした。このことは将来に禍根を残し、三十年戦争の契機ともなった。
背景
1526年、神聖ローマ皇帝カール5世は、東方からのオスマン帝国の圧力が強まる中、シュパイエル(Speyer)における帝国議会でルター派諸侯に譲歩した。このことは、領邦君主が領内の教会を統制下におく、領邦教会体制の出発点として位置づけられている。しかし、1529年に同地で再び開催された帝国議会で前回の決定を撤回し、再びカトリック政策の徹底を図ったため、ルター派諸侯らは、この決定に対する抗議文(protestantio)を提出した。
更にルター派諸侯は1531年にシュマルカルデン同盟を結び、領内のカトリック教会の財産没収などの挙に出た。以後、同盟とカール5世の反目が続いたが、フランスとのイタリア戦争に奔走していたこともあり、両勢力の本格的な衝突は回避された。しかし、1544年に一応の講和が成立すると、カール5世はトリエント公会議などを通じてカトリック勢力の再結集を図り、1546年よりルター派諸侯とも争うことになった(シュマルカルデン戦争)。
この戦争において同盟軍を撃破したカール5世が1度はカトリック優位のアウクスブルク仮信条協定を結んで勢威を拡大したが、1552年にザクセン選帝侯モーリッツが同盟側に付いたことや、ハプスブルク家の財政難が深刻化していたことから、同年パッサウにて開催された諸侯会議でパッサウ条約を締結、次の議会をもって新旧両教派の対立を終息させるとの申し合わせがなされた。同年に反対派のブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスが反乱を起こし(第二次辺境伯戦争)、モーリッツが討ち取られるなどの事態となったが、1554年にアルブレヒト・アルキビアデスは国外追放となった。
パッサウ条約を受けて、ローマ王フェルディナント(カール5世の弟)は1555年2月、アウクスブルクに帝国議会を招集し、同年9月25日、一応の和議が成立した。これがアウクスブルクの和議(アウクスブルクの宗教平和令)である。
内容・影響
この和議において、領邦君主にカトリック、ルター派の宗教選択権が認められた。ルター派を支持する諸侯がカトリック教会・修道院の組織・財産を統制下におくことを事実上認める決定であり、これをもって領邦教会体制が確立したとされる。この後、自らの勢力を強めた領邦君主は、徐々に領内の自由都市にも統制を強めて特権などを剥奪していくことになり、領邦国家ごとの集権化が推進された。